第1話 姉はアルバイト

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第1話 姉はアルバイト

沖重(おきしげ)グループ―――そのビルの中にあって、そびえたつ摩天楼(まてんろう)。 あの摩天楼のてっぺんには誰がいるのだろうと、思っていた時期があった。 今の私はその中に簡単に出入りが出来る『掃除のおばさん』だった。 私に出入りできない場所はなく、今日も契約通りに真面目に掃除をしていた。 そこが例え、私とはまったく住む世界の違う場所だとしてもこの掃除会社のIDカードは万能だった。 「眺めがいいなぁ」 晴れた日は遠い山まで眺めることができる。 ここで花火大会の花火も見えるのかなぁ。 いいなー。 そんなことを考えながら、掃除をしていると話し声が聞こえてきた。 「沖重(おきしげ)グループの新しい社長なんだけど、宮ノ(みやのいり)常務(じょうむ)の息子さんが新しい社長ですって」 宮ノ入とはまたすごいなぁ、 沖重グループよりも規模が大きい企業で財閥と言ってもいいかもしれない。 「宮ノ入の海外支店にいたっていう?」   「海外での企画や受注は全て成功させた海外開発事業部の部長でしょ?かなりのやり手よ」 「すごいわね」 掃除のおばさんと言うのは本当に万能だ。 その会社の内部事情まで全部、わかってしまうんだから。 面白いなぁと思いながら、床を磨いた。 「秘書室が復活するらしいわよ」  ほう、秘書室。 「でも、秘書室って、あれでしょ?新社長の嫁候補って話じゃない?宮ノ入常務の奥様が選んだ良家のお嬢様集団」  「常務の奥様が結婚した宮ノ入社長と八木沢(やぎさわ)社長に対抗して、二人より優秀な嫁をって話らしいわよ」 ふーん。 なんだか、すごい話だなあ。 現代版大奥みたいな? 「ちょっと掃除のおばさん、このゴミも回収して」 「はい」  三角巾にマスクをして掃除スタッフの制服を着ていると24歳でもおばさんか…。 別にいいけど。 私、真嶋菜々子(まじまななこ)は掃除スタッフとファミレスのウエイトレスのアルバイトをかけもちしている。 大学に入学したはいいけれど、親が勤める会社の業績が悪化したため、学費が払えなくなり中退。 高卒でなんの資格もなかった私は両親から無職だけは困ると言われ、アルバイトをすることになったのだが、意外と楽しくて馴染んでしまい、今に至る。 自分の環境適応能力を神様に感謝したいくらいだ。 「菜々子ちゃん、社長室フロアの掃除いってくれるかい?担当のシゲちゃんが今朝、腰をやってねぇ。いないんだよ」 「わかったよー。任せといて」 ここよりさらに上の階になると、別世界だよね。 「シゲちゃん、復帰したら、お詫びにタイ焼き買ってきてくれるってさ!」 「あの行列のできるタイ焼き屋の!?」 「そうさ!」 「うわー!楽しみだなぁー」 シゲちゃんの家は美味しいタイ焼き屋がお隣にあって、すぐに買いに行ける。 皮がパリッとして、尻尾まであんこがギュッと詰まっていて、美味しいんだよねぇ。 タイ焼きに心を躍らせ、ガラガラと掃除道具の入ったワゴンを押しながら歩いていると、目の前からイケメン二人が歩いてきた。 「瑞生(たまき)様、本当にあのバカ―――雅冬(まさと)さんに沖重グループをまかせていいんですか?」 「雅冬は勘がいいからな。なんというか、データとかじゃなく、感覚で決断できるタイプだ」 バカは否定しないんだ…。 「思考できないので、第六感が発達したんでしょうね」 そういいながら、イケメン二人は会社から出て行った。 この会社の新しい社長って、いったいどんな人なんだろう。 仕事ができるのか、できないのか。 さっぱり分からない。 掃除スタッフとして働いていると、社内のことに嫌でも詳しくなる。 さっきのイケメン二人は親会社の宮ノ入グループ社長とこの沖重グループの元社長だったはず。 女子社員にものすごく人気があったけれど、結婚してしまい、社内は一時お通夜状態になった。 あんな人と結婚するなんて、よっぽど仕事ができて、美人で、素敵な女の人なんだろうなぁ。 すごいなあ。 ま、私にはまったく無縁な話だけどね。 モップで床をこすりながら心の中でタイ焼きの歌を歌っていると、わらわらと綺麗な女の人達がエレベーターから降りてきた。 ちょっと近寄っただけで、デパート一階の化粧品売り場の匂いがした。 「雅冬さんのこと、皆さん、しっかり頼むわね」 「聖子(せいこ)おばさま、任せて下さい」 「社長は私達がしっかりサポートしますわ」 「まあ、頼もしいこと」 これが噂の良家のお嬢様集団か。 ふむふむ。 あの聖子おばさま、と呼ばれていた人が宮ノ入グループの常務の奥様で新しい社長のお母さんね。 全員、秘書室へと入って行った。 おばちゃん達に報告しなければ! 絶対にみんなが食いつくネタだし。 もうー!なんなの。 退屈しないじゃないの。 リアル大奥だよ! 大急ぎで掃除を終わらせ、おばちゃん達の所に走ったのだった。 ◇  ◇ ◇ ◇ ◇ 掃除スタッフの仕事が終わった後は会社近くのファミレスでウエイトレスをしている。 黒と白のメイド服みたいな制服でなかなか可愛いせいか、若いアルバイトの子も多い。 「煮込みハンバーグとミートスパゲッティですね」 注文を受けると、メニューが書かれた機械のボタンを押した。 「テーブル5番、シーフードグラタンできてるよー」 「はーい!」 夕食の時間のせいか、家族連れが多くて大変だった。 団体が多いと、やっぱり大変だよね。 21時になり、仕事がやっと終わった。 後は夜勤務の人達がやってきて、交替になる。 「菜々子ちゃん、今日の従業員食。なに食べるの?」 「あ、今日はテイクアウトでピザとフライドポテトとアイスティーで」 「了解」 ファミレスの従業員は安く従業員食を食べることができる。 それが楽しみでもあった。 「じゃ、お先に失礼しまーすっ!」 「おつかれさまー!」 今日も一日、よく働いたなぁ。 ファミレス近くのベイエリアに向かった。 テイクアウト用に包んでもらったのを受け取り、仕事が終わってから、海が見えるベンチでのんびり食べるのが好きだった。 高級マンションが並ぶベイエリアで治安も悪くないし、ビルや橋、船の灯りが綺麗で明るい。 水際では海面に映るマンションの灯りがゆらゆらと揺れているし、海からの潮風も心地よく、お気に入りの場所だった。 いつものようにアイスティーを飲みながら、ぼっーと夜景を眺めていると手すりによりかかり、海を眺めるスーツを着た男の人がいた。 「自殺とかじゃないわよね…」 ちらちらと気にしながら、ピザを食べていたけど、まだ海を見ている。 だ、大丈夫なのかな。 背中が寂しげで、どこか悲しそうに見えた。 「あの、元気だしてください。いいことありますよ」 ぽんっと肩を叩いた。 その男の人はやっぱり悲しそうな顔をしていたから、声をかけてよかったと思った。 「大丈夫ですか?」 「あ…ああ」 まさか、声をかけられるとは思っていなかったらしく、驚いていた。 うんうん、わかるよ。 働いていると悩みもあるわよね。 うちのお父さんもリストラされかけた時はこんな感じだったもん。 きっと仕事でなにか失敗したに違いない。 「よかったら、ピザ食べます?これ、ファミレスのテイクアウトのピザですけど、結構おいしいんですよ」 「いいのか?」 スーツの裾を掴み、ベンチに座らせると、ピザを差し出した。 「いいですよ。今日、Lサイズを間違えて作ったらしくて。残ったら、家に持って帰って明日の朝ごはんもピザになるとこでした」 「ファミレスのバイト?」 「そう。ここの近くでバイトしているんですよ」 はい、とピザをあげるともぐもぐとその人は食べた。 着ているスーツも高そうだし、暗くてさっきは顔がよく見えなかったけど、かなりイケメンなんじゃないだろうか。 このあたりのマンションに住んでいるお金持ちか…。 ファミレスのピザを食べさせてよかったのか…私…。 「うまい」 「よかった!」 「こんな時間に女一人でこんなところで夕食なんて変わっているな」 「そうですか?夜のピクニックだと思えば、なんてことないですよ」 「声をかけたのが、俺でよかったな。危ない男だったら、どうするんだ」 「ちゃんとわかりますよ。そんな元気のない人が襲えるわけがないですよ」 「元気ないように見えたか?」 「覇気がまったくなかったです。その辺を散歩する犬にすら、負ける勢いでした」 「そんなにか!?」 そんなにだよ…。 声をかけたのは自殺するかもって、思ったからとは言えなかった。 「言っておくが、いつもの俺はもっと強いし、かっこいい!」 「へえー」 ピザを食べて元気が出たらしく、明るくなっていた。 お腹空いていただけ?まあ、いっか。 「久しぶりに日本に戻って……知り合いに会って、ちょっと憂鬱になっただけだ!」 「そうなんですか」 思い出しただけで、憂鬱なのか、苦しそうな表情を浮かべていた。 あまり気の合わない相手のようだ。 「お前、またここくるか?」 「たぶん?」 「名前は?」 「真嶋菜々子です」 「俺は宮ノ入雅冬。ピザのお礼に今度、なんか奢ってやるよ。じゃあな」 「はあ。どうも」 名刺をくれた。 貰い慣れてないので、適当にショルダーバッグの隙間に入れた。 変わった人だったなぁ。 まあ、自殺願望者じゃなくて、よかった。 スマホ画面の時計が22時になったのを見て、うーんと伸びをし、家へと帰ったのだった。
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