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男に言い寄られたり、体を触られることを、朔はこれまで決して望んでこなかったはずだった。だが今、朔は紫月に対してだけはなぜか嫌悪感を感じていない。恐怖感もない。それどころか、時間が経てば経つほど、三日前の夜のことを思い出して、今もこんなに胸をドキドキさせている。
きっと、あんなこと言われたせいだ。守る、なんて言われたから……。
『お祓い』の後、「朔のことは、俺が守る」と、確かに紫月はそう言い残して帰って行った。かつて他人にあんなことを言われた経験は一度だってない。今まで外見で同性愛者だと勘違いされ、男に誘われたり、告白されたり、或いは不意に背後から抱きしめられたこともあった。一方的にキスをされた経験だってある。だが、「守る」なんて言われたことは一度もなかった。今、朔は体で支払うとか、セックスがお祓いになるとかいうことよりも、紫月に言われた言葉がどうにも気になって仕方がないのだ。
僕を守るっていうのは、きっと、客だからってことだよね……。別に特別な意味があったわけじゃない、よね。
特別な意味とは。それを具体的に想像して、たちまち顔が熱くなる。そんなわけない、と思い直して、朔はグラスの中の水を一気に飲み干した。
守る……って。あんなこと、みんなに言ってるのかな……。
朔を守ると言った、紫月の顔が浮かぶ。慌てて頭を横に振った。考えれば考えただけ、さらに胸の鼓動は速くなった。
「はあぁー……、もう……」
深く重いため息を吐いて、項垂れた。言い慣れているのかもしれない。心を揺さぶられたあの言葉も、紫月にとっては馴染みの商売文句なのかもしれない。きっと、気にするだけ損だ。そう思ってみても、無意識のうちに朔は紫月のことを考えてしまっている。ここ三日ほどは、もうずっとこんな感じだった。
そもそも、背中の痣のことだって、確認とか言ってたけど、結局何だったのか全然わかんない……。ただ、あの時すごく――、悲しそうだったような……。
紫月に背後から抱きしめられたのは、痣を見られた直後だった。朔は、その時の紫月の表情や声をぼんやりと思い出してみる。少なくとも紫月がどこか悲しそうに見えたのは、確かだった。
変なの……。痣が何なんだろう……。っていうか、なんでこんなに僕は、あの人のことが気になるんだろう……。
今、外は太陽が高く昇った昼間だというのに、月明かりに照らされた紫月の妖艶な笑みが脳裏に浮かんだ。さらに顔は火照り、体には既に汗が滲んでいる。朔は思わず、頬を手の平でパチパチ叩いた。
あぁー、もう! 気にしない、気にしない! とにかく今はもう蛇はいなくなったんだから、あんな人は放っておけばいいんだ……!
するとその時、隣でくすくす笑う声がした。朔はハッとして隣を見る。
「大丈夫か?」
「すっ、すみません……!」
「オレで良ければ相談に乗るぞ」
そう言って、瀧は傍にあったピッチャーを取ると、空になっている朔のグラスに水を注いでくれた。
「あ、ありがとうございます……」
朔はペコッと頭を下げてから頬を掻く。
「でも、その――。ものすごくくだらないことなんです……」
「かまわないよ」
「はぁ……」
朔は瀧の顔をちらっと窺った。瀧は頬杖をついて、ニコニコしながら朔が話し始めるのを待っているようだ。
「さっきから、何をそんなに考えてるんだ?」
「いや、あの……、ですね……」
「うん」
「ちょっと……、気になる人がいて――」
「え?」
あ……。しまった……っ!
見れば、目の前で瀧は不思議そうな顔をしている。その言い方では当然だった。朔は今、頭の中で悶々と考えていたことを、何の説明も脈絡もなく話し出してしまったのだ。しかも、仕事の昼休み中に、上司を相手に自分は一体何を相談しようとしているのだろうか、と改めて考えると、朔はもう恥ずかしくて堪らなくなった。
「何だ、千代田。お前、好きな奴でもいるのか?」
朔は慌てて首を横に振った。
「ち、違います……! その、ちょっと知り合いに変な人がいて――。う、鬱陶しいって意味です!」
「変な人……?」
「そうっ! そうなんです! その人が言うんですよ! 僕は……誰かに、狙われてるって……!」
咄嗟に話を作ってそう言った。途端に瀧は噴き出して、ゲラゲラ笑う。
「おいおい、何だそりゃ?」
「か……っ、会社の中で誰かに、嫌われてたりとかしないか、って……」
「はぁ? 神妙な顔して思い詰めて何かと思えば……!」
瀧は腹を抱えてなおも笑っている。朔の考え事が相当ツボに入ったらしい。
「お、可笑しいですよね……。やっぱり……」
「悪い、悪い。でもまさか、そんなことを思い悩んでいるとは知らなかった……!」
とりあえずこの場は、愛想笑いをしておいた。
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