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ある日、夢を見た。それは、いつかの記憶だった。
「良い日だなぁ、白鹿毛」
すすき野原の真ん中で、足を跛行させながら隣を歩く愛馬に語りかける。ふと見上げた空はカラッと晴れ渡り、乾いた風は肌に心地良い。秋の空は遠く高く、寂しげだ。だが、好ましいと思った。空気が澄んでいる方が物事はよく見える。空も、山も、すすきも、人も、何もかも。
下総の国のとある大名に仕える武士、村崎清之介は、晴れた秋の日の午後、領内の小さな池に愛馬を連れてやって来た。隣を歩くその歩様をじっと見つめ、ため息を漏らす。
だいぶ良くなってきてはいるようだな……。
村崎の愛馬である白鹿毛は、かつて共に数多の戦場を駆け抜け、疾風のごとく敵陣を一掃した名馬だった。しかし、度重なる戦で矢傷を受けてからというもの、跛行するようになっている。今も傷自体は塞がっているが、跛行だけは治っていなかった。
「白鹿毛。お前とまた風になる日が待ち遠しい。……戦は好かぬがな」
池のほとりまでやって来た村崎は、白鹿毛の灰色がかった葦毛の鬣を撫でてやりながら語りかける。すると白鹿毛は頭を低くして、静かに池の水を飲み始めた。
「たんと飲め。今そこを洗ってやる」
これまで様々な薬を試してみたりはしたが、どれもあまり効果はなかった。もう白鹿毛の足は一生このままなのだろうか。二度と風のように地を駆けることはできないのだろうか。――と、村崎は白鹿毛の傷の完治を既に諦めかけていた。だが、ひと月前、この池の言い伝えを耳にし、一縷の希望を得たのだ。それからはここへ毎日のように通っていた。
なんでもこの池の水には神の力が宿っているのだという。その水を飲めば病を治し、傷を洗えばあっという間に癒えるのだそうだ。もちろん、そんな夢のような話をはじめから何の疑いもなく信じているわけでもなかった。ただ、今よりほんの少しでも白鹿毛の足が良くなってくれたらいい。その一心だった。もっとも、それはまるっきり迷信でもないのかもしれない。ここへ通うようになったせいか否か、白鹿毛の足の回復の兆しは、少なくとも以前よりはあった。
「きっともうすぐ良くなるぞ」
そう言って、村崎はいつものように白鹿毛の後肢の傷痕を洗おうと、屈んでそこを覗いた。だが、ちょうどその時だ。すぐ近くで、ガサガサッと草の葉が擦れる音がした。その直後、高く伸びたすすきの群生の間から一本の矢がヒュンッと飛んできて、池の中へ真っすぐ飛び込んで行った。白鹿毛はすぐにその音に警戒し、顔を上げ、耳をピンと立てる。水辺にいた鳥達も物音に驚いたのか、一斉に飛び立っていく。村崎は即座に腰に差していた刀を抜いて構えた。
矢……? 一体誰がこんな所で……。
すると、ほどなくして声が聞こえてきた。
「外したか! 小癪な奴だ! どこへ行った!」
しゃがれた男の声だった。次の瞬間、橙色をした毛の塊が突然、池のほとりに姿を現した。と、同時にそれは転がるように村崎のいる方へ向かってくる。その後を追うようにして、一人の男が弓を手に持ち、池のほとりへ駆けて来た。
狩り――でもしてるのか……?
転がって来たその橙色の毛の塊が、獣だということだけは辛うじてわかった。
「そこか! 覚悟しろ、この……狐めが!」
男はそう言って、弓を構える。
狐か……。
どうやら狐らしいそれは、村崎の足元の草むらへ一瞬にして隠れた。小さく丸まって身を潜めながら、怯えた目で追って来た男を見つめ、震えている。
「これは……」
見たところ、まだほんの幼い子狐だ。村崎は眉を上げ、ゆっくりと刀を納めた。
「おい! 貴様っ! 早くそこを退かぬか、邪魔だ!」
男が弓を構えたまま怒鳴った。しゃがれた声が辺りに響き渡る。こんな事態は、いつものどかなこの風景には、あまりに似合わなかった。
「矢が当たっても知らぬぞ!」
喚く男を前にして、村崎はため息混じりに声を張る。
「どこの誰かは知らんが……、こんな小さな狐を追ってどうするのだ。毛皮でも取るつもりか」
「それはただの狐ではない! 化け狐ぞ! 今に力を付けて、悪さをするようになるのだ!」
「なるほど。……では、まだ何もしていないのだな」
村崎の言葉を聞いて、男が眉をしかめた。
「……何?」
「確かに、こやつは今に悪さをするかもしれん。だが、それはこれから先のことだ。誰にもわからんだろう。しかもまだほんの子どもではないか。見逃してやれ」
すると、男は目を細くして、見下したように鼻で笑って見せた。
「は……っ! 馬鹿め! 化け狐などに情けをかけると祟りを受けるぞ!」
「祟りだと……? お前こそ、まだ何も悪さをしていない子狐を殺めようとしているのではないのか? それで祟りを恐れぬとは、見上げた奴だ」
村崎に返す言葉を見失ったのか、男は悔しそうに弓を下ろす。
「勝手にするがいい……! 祟られても知らんからな!」
そう吐き捨ててて、男は去って行った。
「見かけぬ顔だったな……。よそ者か……?」
白鹿毛がヒン、と鳴く。村崎はその体を撫でて落ち着かせると、足元で震えている子狐を見つめた。
「もう大丈夫だぞ。狐の子。おや……?」
子狐は恐怖で硬直しているのか、声をかけても微動だにしなかった。見れば、背中に傷を負い、橙色の毛は血が滲んでいるせいで黒く染まっているではないか。震えているのは、そのせいかもしれなかった。
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