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「怪我をしてるのか。さっきのあれにやられたのだな」
なんてひどい奴だ、とぼやきながら、村崎はその場にしゃがみ込み、懐から麻の巾着袋を取り出した。その中に入っているのは小さな椀と、馬用の薬。それは痛みを緩和する塗り薬だ。
「どれ。じっとしていろよ」
村崎はまず椀に池の水を掬って入れ、手ぬぐいにその水を充分に滲み込ませると、子狐の傷を洗ってやった。小さな木箱の中に指を突っ込み、粘性のある薬を指先で取る。
「馬の薬だが……、まぁ、狐に効かんことはないだろう」
それをそのまま、子狐の傷の上にぺとりと塗った。途端に、子狐はビクッ! と体を震わせる。
「おっと……、痛かったか? よしよし、大丈夫だ。痛いのはよく効く証というからな」
村崎は笑いながらそう言って、池の水で手を洗った。
「して……お前はなぜ追われていたんだ?」
答えることができないと知りながら、子狐の頭をそっと撫でて、村崎は訊ねる。
「まぁ良い。あまり人に近づきすぎてはならんぞ。人というのは信用できん生き物だ」
いや、自分もまた人であったか、と思いながら、村崎は笑みを零す。それからなおも子狐の頭を撫でた。ふかふかとした毛の手触りは柔らかく、指に心地良かった。
「私は村崎清之介だ。お前は? よくここへ来るのか?」
まん丸とした黒く愛らしい目が、村崎をじっと見つめる。わかりもしないであろう、人の言葉に懸命に耳を傾けているようにも見える姿に、村崎は目を細めた。
ほどなくして、しんと静まり返った池に水鳥達が戻って来た。すると――。バサバサと羽の音を騒がしく立てながら、次々に池に飛び込むその音に驚いたのだろう。子狐は飛ぶような速さで、生い茂るすすきの群生の中へあっという間に入って行ってしまった。
「行ってしまったか……」
ガサガサとした音が、次第に遠くなっていく。やがて物音は聞こえなくなり、辺りには再び静寂が訪れた。
「悪さをするなよー! また会おう!」
口元に手を当てて叫んだ村崎の声が、辺りにこだまする。
化け狐か……。あやつが本当にそうだとは思えないが……。
そう思った時だった。不意に、大きな音が耳のすぐ傍で聞こえた。けたたましく鳴る鐘の音に、村崎は耳を塞ぎ、目を瞑った。
「んん……っ」
耳元で、鐘の音が鳴る。まるで頭を殴られているかのように起こされ、うっすらと目を開けた。おもむろに枕元のケータイに手を伸ばし、当たり前にアラームを切る。いつも通りの朝だ。
「あぁ、夢か……」
寝返りを打ち、大あくびをして、男にしては少し長めだと言われる黒髪をくしゃくしゃと掻く。そのまま、少しはだけていた布団を被った。
懐かしい夢を見たな……。
それは遠い遠い昔の記憶。まだ自分が今の自分ではなかった頃の思い出だった。
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