小さな「好き」から見つけましょう

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――そんな名前をつけてもらったのに、僕は孤独だ……。 久しぶりに自分の名前の由来を思い出して、依歩は少し寂しくなった。 「たくさん名前を呼んでくれたのに、もう母の声が思い出せないんです……」  人間は、まず声から忘れていくと、誰かから聞いたことがある。声を忘れ、顔を忘れ、最後に思い出が消えていく。「依歩」と呼んでくれた母の笑顔は思い出せるのに、声は聞こえてこない。 「依歩……」 「……え、あ……」 ぼそぼそ喋っていても脳を痺れさせるような重低音が、依歩の名を呼ぶ。 「……って、呼んでもいいか」 「は、はい。だ、大丈夫です」  動揺のあまり、つい反射的に肯定してしまう。 「俺のことも、名前で呼んでくれ。克己のことは名前で呼んでるだろ」  それは、同じ鏑木では呼ぶ時に不便なので、隆臣だけを名字で呼んでいただけなのだが、少し不貞腐れたような隆臣がかわいくて、つい笑ってしまう。 「はい……。ええと、た、隆臣さん……」  練習をするように、声に乗せてみる。ぐっと距離が縮まったような、妙な感覚。 ――いや……でも……。 以前、アトリエにやってきたデザイン会社の人が「おみさん」と呼んでいたのを思い出す。隆臣は、OMIという名前で画家として活動していて、そちらの方が呼ばれ慣れているのだろう。 ――別に、特別なわけじゃないか……。 その他大勢と同じだと気付いて、残念な気持ちになる。しかし、この寂しい気持ちが何なのか、自分ではよくわからなかった。 *** 「わっ……」  思わず小さな声が漏れる。目に飛び込んできたのは、壁一面に飾られた作品の数々だ。 「一緒に保管庫の掃除をして欲しい」と隆臣から要請を受けた依歩は、鏑木ビルを担当するようになって初めて、玄関のすぐ隣にある扉を開けた。一階の画廊のように魅せる飾り方ではなく、保管のための羅列。鮮やかな色彩の油絵や、気が遠くなるほど緻密な白黒のコンテ画、ペン画、その全てに目も心も奪われる。  立ち止まったまま動かなくなった依歩に、隆臣は「あ――、そういや見せたことなかったか」と独り言ちる。  隆臣のアトリエにあるキャンバスやスケッチブックは、そのほとんどが未完成で、しかも掃除をする時にじろじろ見たりすることはない。初めて見る圧倒的な作品の数々に、依歩は鳥肌が立った。 「え……、これって……」  目に留まった一枚の絵は、見覚えがあるものだった。
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