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「ああ……、それは何年か前に出版された本の表紙だな」
その年のベストセラーになり、映画化もされた大人気のファンタジー小説で依歩も読んだことがある。なんと隆臣は、そのシリーズの表紙と各章の扉絵を担当していたのだ。各巻の物語に寄り添う美しい表紙の数々は、読者の気持ちを盛り上げる大きな要素の一つだった。
「僕……、この本、何度も図書館で借りたんです」
――そう、そうだ……。僕は、この絵が見たくて……。
「隆臣さんが描いてたなんて、全然知らなかった……」
炭酸の泡が弾けるように、体の中で眠らせていた細胞が蘇っていくような、そんな不思議な感覚。
――ドキドキする……。
「本の表紙は物語の引き立て役で、主役じゃない。描いた画家は知らないくらいでいいんだよ」
耳に響く、隆臣の声。絵を手にする武骨な指。正面から見るよりも少し優し気に見える横顔。この人が、この絵を描いたのだ。
「僕……、好きです」
「え……?」
「いや、前から好きだったんです。隆臣さんの絵が……」
最初は、わがままを言わない、あれが欲しいこれが欲しいと思わない、そういう自分でいようとしていただけだった。それがいつの間にか、自分の心を守るように、『好き』に対して鈍く、何も感じなくなってしまった。次第に、鈍化した心は『好き』を意識的に自覚する力がなくなっていった。
「僕の中の『好き』は空っぽじゃなかった。ただ、自覚していなかっただけみたいです」
きれいな絵、心に響く歌、おいしい料理、自分には小さな『好き』がもっとあるはずだ。ずっと蓋をしていた場所を、隆臣がそっと開けてくれた。
「『好き』の見つけ方、少しだけわかった気がします」
「そうか……、絵の方か。そうだよな……。良かったな」
なぜだか残念そうな表情を見せる隆臣に、依歩は首を傾げる。もっとその表情をよく見ようとしたところで、「とにかく……、掃除だ」と後ろを向かれてしまった。
「はい、がんばります」
隆臣には見えていないが、依歩は小さく握りこぶしを作り気合を入れる。
誰にも触らせたくないから自分で片付けると克己に言っていた大量の段ボール、掃除は不要と言っていた作品の保管庫。それが、今では依歩を頼ってくれることが嬉しかった。
――もっと、僕を頼ってくれたらいいのに……。
そう、強く願う。その願いの根源が何かも自覚しないまま。
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