小さな「好き」から見つけましょう

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 アトリエにある小さな打ち合わせスペースに腰掛けた二人を目の端で確認すると、依歩は急いでキッチンに向かった。すぐに冷たい麦茶を用意してアトリエに持っていく。 「俺はやりません。何度こられても無駄です」  決して大きな声ではないのに、背筋にまでびりびりと響くような重低音。お盆持っていた手がびくりと震え、麦茶が波立つ。「どうぞ」と声を掛けてお茶を出すのも躊躇うほど、纏う空気が重く、依歩は動けなくなった。 「そこを一声、鏑木社長に声を掛けて頂けたら、弊社としてもコンペで有利になる。OMI先生の知名度だって上がる。悪い話ではないと思いますがね」  眉を寄せ、いつもの仏頂面よりもさらに迫力のある表情をする隆臣に怯まず、男性は話し続ける。そして、遠くで佇んでいた依歩を見遣った。目が合ってしまってはこのまま下がるわけにもいかず、近づいて麦茶を二つテーブルに置いた。 「すみません、ご丁寧にありがとうございます。アシスタントさん? ああ……、もしかして新しい恋人の方かな?」  「えっ、い……いえ、あの……」  驚いて口籠った依歩は、無意識にぎゅっとお盆を掴む。頭の上から足の先まで、依歩を値踏みするように、大きな動作で一瞥され、男性はさらに言葉を重ねた。 「ああ! これは失礼しました。お手伝いさんでしたか」 たった今、社名の入ったエプロンに気が付きました、とでも言うように鷹揚に驚くと、下卑た薄笑いを浮かべて言い放つ。 「さすが、御曹司の一人暮らしは違う。贅沢で羨ましい限りです。こんな素敵なビルもお持ちだし、絵の仕事をしなくたって、暮らしていけるでしょうね」 こちらを不快にさせるその挙動に、依歩は思わず苛立った。しかし、隆臣は表情を崩すこともせず、何も言い返さない。 ――隆臣さんを嘲るなんて……! 依歩は、悔しくなって、つい眉間に皺を寄せる。しかし、どんな感情が生まれようと、ここで依歩が出る幕などない。一礼し、くるりと踵を返した時に見た隆臣の顔に苛立ちはなく、悲しさと哀愁が漂ったような、初めて見る表情をしていた。
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