小さな「好き」から見つけましょう

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母を亡くした年。依歩はある共働き家庭の家事代行スタッフとして、週三日、三時間の契約で通っていた。一般企業に勤める夫と、医者の妻、そして十歳になる男の子の三人家族。特に医者として大学病院に勤務していた奥様は多忙を極めていて、家にいる時間は誰よりも少なかった。 男の子はいつも一人で食事をしていた。夕飯を用意したところで、契約時間は終了だったが、依歩は帰ることができずに、男の子が食べ終わるのを待っていた。 両親がいるのに、孤独だった男の子に、依歩は自分を重ねていたのかもしれない。その頃には母は入退院を繰り返していて、家に帰っても一人だった。そんな日々の中で、旦那様とは顔を合わせることが何度かあった。男の子に優しく、時に厳しく接する姿に、父親がいたらこんな風だったのだろうか、と思いを馳せた。 依歩は少しずつ、旦那様に自分の悩みや生い立ちを打ち明けるようになった。旦那様はいつでも話を聞いてくれたし、たくさんアドバイスをくれた。自分を気にかけてくれる、優しい大人だった。 平和な時間が流れていた。父親と弟がいて、依歩がいて、二人は依歩の作った食事を美味しそうに食べてくれる。まるで家族のような疑似体験。 そんな時、容体が悪化した母が亡くなった。ちょうど、旦那様の家で家事代行の仕事をしている時だった。覚悟していたこととは言え、呆然とする依歩に寄り添い、支えてくれたのは、旦那様だった。依歩は、旦那様を父親のように慕っていた。 『君を放っておけないんだ』 『君のことが好きだ』 そう、熱の籠った瞳で告白されても、依歩にはピンとこなかった。 『うちの夫に色目を使わないで!』 『あなたが、私たち家族を壊したのよ』 『これだから片親で養護施設育ちの子は』 ヒステリックな金切り声で浴びせられる謂れのない罵声。そこでようやく、依歩は旦那様の言葉の意味を知った。父親のように慕っていたのは、依歩だけだった。 依歩をときどき抱き締めてきた腕も、頭を撫でてきた手も、父性愛ではなかったのだと思った瞬間、吐き気が込み上げた。体を洗っても洗っても気持ちが悪くて、無駄だとわかりながら、色白い肌が真っ赤になるまで擦って洗った。 依歩は、すぐにその家の担当を外された。奥様から訴えると言われ、会社から聴取され、営業所内では、依歩が旦那様と不倫関係だったと噂された。  母を失った悲しみも癒えない時期に、依歩は、不安と孤独を抱え、何を信じたらいいのかわからない絶望感に苛まれた。心を鈍化させなければ、立っていられなかった。 それでも、この営業所にいられたのは、所長が、「何もなかった」と主張する依歩のことを信じてくれたからかもしれない。それだけが救いで、今日までやってこられたのだ。
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