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しばらくして、依歩は出したグラスを取りにアトリエに向かった。もう男性は帰った後だったが、隆臣は机に向かうことなくぼんやりとソファーに座っていた。声を掛けてはいけない気がして、依歩はしばらくそこに佇んでいた。
「隆臣さん……、そろそろ失礼します」
「あ、ああ……もうそんな時間か」
夕方。作業机ではなく、応接用のソファーに腰掛けた隆臣は本を読んでいた。こちらに視線を向けた隆臣の表情は、いつもより暗い気がした。普段なら、声をかけただけですぐ退勤するが、胸がざわざわとして、動けない。
「……さっきは、悪かったな」
隆臣が、微かに苦笑う。そんな表情を見ていられなくて、依歩は隆臣の隣に腰を下ろした。
「僕、悔しかったです。隆臣さんは、画家としての仕事を大事にしていて、真摯に向き合っていて、これまでたくさん素敵な絵を生み出してるのに、あんな風に言われて……」
「ありがとう。でも、俺のことはいいんだ。俺の力不足だから。そうじゃなくて、依歩が不快だっただろう。俺の恋人だの、お手伝いさんだの、言われて」
「え……?」
予想もしていなかったことを言われて、思わず聞き返す。
「経済的に頼ってはいないが、実家が裕福なのも、俺の恋愛対象が同性なのも事実だ。だから、俺は何を言われても仕方ない。でも、依歩は関係ないだろう。巻き込んで悪かった」
さらりと告白しておきながら、「依歩は関係ない」と言う。こちらにくるなと一線を引かれたような感覚に、胸がずきんと痛んだ。
何も言わない依歩に何を思ったのか、隆臣は小さく溜息をつくと話を続けた。
「克己にも相談しないとならないが、俺の担当から、外れてくれて構わない。担当している家の家主が同性愛者なのは、嫌だろう」
「そ、そんなことは……」
飛躍していく話に動揺し、ぱくぱくと開いた口からは言葉が出てこない。隆臣の表情は、感情の読めないいつもの仏頂面に戻っていた。
「少し前に、俺と克己は、所長さんから話を聞いた。依歩が出勤しない日に、ここに挨拶に来たんだ」
「えっ……」
「挨拶というより、依歩のことを心配して、様子を聞きに来たんだろうな。それで、もうずっと定期の家事代行の仕事をしてないって話を聞いたんだ……」
――それはつまり……。
依歩の瞳に影が差す。消化不良でまだ胃に何かが残っているような、微かな不快感。
『君を放っておけないんだ』
『うちの旦那に色目を使わないで』
『あなたが、私たち家族を壊したのよ』
『これだから片親で養護施設育ちの子は』
苦い思い出が脳裏を過る。もう何年も経っているというのに、蘇る光景は鮮明で、思い出すたび、吐かれた言葉が無数の棘のように依歩の心に深く突き刺さる。
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