Log.1 どこかおかしい試合

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Log.1 どこかおかしい試合

 モダンな店内に、淡々とした声が響く。 『本日未明、埼玉県熊谷市の路上で、女性が性的暴行を受けて負傷する事件がありました。警察は強制性交致傷の疑いで、暴力団組員の男を逮捕しました』  ここは東京のとある街に佇む喫茶店。客は注文を待つ間、店内奥のテレビに見入っていた。ちょうど正午のニュース番組が放送されている。  どうやら、被害者は与党の有力な政治家の娘らしい。客が画面を注視すると、若い男性キャスターは更に続報を述べてゆく。 『逮捕されたのは、指定暴力団「中川会」系組員の山沢聡容疑者、29歳です。調べに対し、山沢容疑者は「性欲が我慢できなかった」などと供述していることから、警察は……』  キャスターが更に詳しく話そうとした瞬間、急にチャンネルが切り替わった。 「ちょっと! 観てたのに!」  カウンターの奥にいる初老の店主がリモコンをいじったらしい。文句をこぼす客に、店主は言った。 「悪いねぇ。これからサッカー中継なんだよ」 「だからって、人が見てる最中に消さなくたって良いでしょうに」 「良いじゃん。ここ、俺の店だからさ。決定権は俺にあるの」  文句を言う客を軽くあしらいながら、店主はソーサーに乗ったカップを差し出す。 「はい、これ。お待ちどおさま!」  彼が注文した紅茶は黄金色をしていた。のぼり立つ湯気と共に、芳醇な林檎の香りが漂ってくる。客はいただきます、と日本式の挨拶をして茶をすすり始める。 「ああ……美味しい。これだからアップルティーは止められない」  その上品な風味からくる多幸感に浸る男を見て、店主が言った。 「しっかし、お前さんは本当に紅茶が好きなんだねぇ」 「コーヒーが飲めないだけです。故郷にそういう習慣はありませんでしたので」  呆れたように、ため息をつく店主。 「はあ。うち、本当はコーヒーショップなんだけどね」  そんな愚痴をこぼす店主には構わず、客は口に含んだ茶をゆっくりと深く味わっていた。午後の最も人が少ない時間帯だけあって、店内にはテレビの音が響きわたる。 『まもなくキックオフです! 全国のサッカー少年たちが待ちに待った頂上決戦が始まります』  現役閣僚の娘が乱暴されたという悲しいニュースとは打って変わって、画面に映っているのは激しい歓声と興奮に満ちあふれた競技場の風景。それに呼応するかのように、実況の声にも熱が入っていた。 『前回優勝の浦和学苑を迎え撃つのは、過去最多優勝を誇る神奈川高校。関東勢同士の激突となりました。さあ、ピッチの女神はどちらに微笑むのでしょうか?』  店主が客に尋ねる。 「お前さん、サッカーは好きなのかい?」 「いえ。特に好きでは」 「そうかい……まあ、観てなよ。敷居が低いスポーツだから」  試合開始直後、神奈川高校が先制のゴールを決めて1点を獲得。店主は歓声を上げる。 「よおし! やっぱりそうなったか。だから言わんこっちゃない……」  その含みのある言い方に、客は思わず聞き返した。 「ん?」 「ああ、すまんすまん。独り言だよ。あたしの予想が当たっちまったからねぇ」  店主の予想――。  それは両チームの攻守の布陣についてであった。神奈川高校のFWは最強ストライカーとの呼び声高い選手であったが、一方浦和学苑は攻撃力に劣る上にエース級のDFが全試合で負傷し、離脱。そのため攻守ともに不安を抱えたまま決戦に挑むことを余儀なくされているのだ。 「なるほど。そういう事ですか。お詳しいのですね」 「だろ? こう見えても俺、昔はサッカーのチームを持っていてな。景気が良い頃にはオリンピ……」  説明のついでに始まった、店主の過去の武勇伝。特に耳を傾けてやる必要も無ければ、お世辞を言ってやる道理もない。客は紅茶を飲みながら、ただ聞き流すだけであった。 「うわあ、また入れやがった!」  話している間に、神奈川に追加点が入った。0対2。以降、試合の前半は神奈川の優位で進んでいく。そして浦和が反撃すらできないまま迎えたハーフタイムの最中、店主がそわそわしながら言った。 「ねぇ、どっちが勝つと思う?」 「大して興味もありませんが、強いて言うなら浦和の方でしょうか」  その言葉に、目を丸くする店主。 「え、どうしてそう思うんだい?」 「何となくですかね。私はどうも、彼らが逆転しそうな予感がするのです」  サッカーどころかスポーツ自体に関心が無かったが客はどうも、浦和が勝ってしまうような気がしていた。しかし、それを具体的に筋道立てて説明せよと言われても難しい。“勘”としか言いようが無かった。 「ほお。そうかいそうかい……まあ、観ててごらん。神奈川が勝つだろうからさ」 「大した自信ですね」 「ああ。賭けても良いよ」  店主はさらに続けた。 「もし神奈川が負けたら、今日の分のお代は結構。俺の奢りってことで良い」  やがて試合が再開し、浦和が果敢に攻めかかる。しかし神奈川の鉄壁のディフェンスに阻まれ、上手くゴールに近づけない状況が続く。  しかし、10分ほど経った頃だった。  神奈川高校の監督が突然、陣形の変更を命じた。  それまで勝ち逃げをはかるがごとく、防御一辺倒の配置だったのを攻撃的なポジショニングに変えてしまったのである。  試合状況から考えて、特に意味を持たない変更のようにも思えたが、守りが手薄になってしまう危うさがあった。ルールに精通した者から見れば、明らかにリスクの伴う陣形となってしまったのだ。  画面を食い入るように見つめていた店主は、叫ぶように言った。 「おい、何で変えるんだよ! おかしいだろ!」  事実、これが大きな采配ミスとなった。  浦和の攻撃は前にも増して一段と激しくなり、試合の潮目が少しずつ変わっていった。そして神奈川のディフェンスはあっという間に乱され、ついには1点を返されてしまう。  普通、このような状況に陥れば即座に陣形を元に戻すだろう。  しかし、神奈川の監督はそれをしなかった。選手に対して戦術の変更を伝えず、そのままで良いと言わんばかりの曖昧な指示を出し続けたのである。  当然、陣形の維持を選んだ監督に対して、神奈川サイドの応援席からは罵声にも似たブーイングが浴びせられる。 『おい、何やってる!』 『いい加減にしろ!』 『やめちまえ! このポンコツが!』  それはテレビの画面越しにも聞こえた。高校サッカーの大会でこのような光景は珍しい、と実況のアナウンサーも呟くほどだった。  一方、相手のペースが崩れた瞬間を見逃さなかった浦和イレブンは怒涛の猛反撃を仕掛ける。各選手の持ち味を生かした大胆な突撃は4度におよび、その姿はさながら翼を得た虎であった。  やがて後半30分、浦和のFWが放ったロングシュートがゴールの網を揺らした。 『ゴォォォォールッ!』  瞬く間に大歓声がスタジアムを支配していく。神奈川の勝利を信じて疑わなかった店主は、あんぐりと口を開けてテレビを見つめていた。一方、男は神妙な面持ちで画面を注視する。  その後、両陣営ともに同点を維持したまま45分が終了。試合はPK戦へともつれ込み、神奈川の選手が思いっきり蹴り上げたシュートを外してしまったことで、浦和の勝利が決した。 『常に熱い試合でした。高校サッカーの歴史に、新たなページが刻まれました』  実況のアナウンサーは興奮を隠せない様子であった。一方、店主はというと神奈川の敗北に未だ納得がいかない様子であった。 「この試合、おかしい……」  しかし、どこがどうおかしいのかを問われたら説明に窮する。前言の通り、客はこの日タダで紅茶を飲むことができた。 「どうも。ごちそうさまでした」  そう言い残し颯爽と店を後にする客=ミカイル・ペトロヴィッチは自分が後に、この試合に絡んだ大事件に巻き込まれるなど想像もしていなかった。
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