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新しい年度が始まり新しいクラスを持ち、彼の事など忘れていたゴールデンウィークを過ぎたある日の事。
「いずみんいる?」
聞き覚えのある声がして職員室の扉が開かれた。
呼ばれた富美子はやりかけていた書類から視線を上げた。
そこには卒業した彼の姿があった。
「よかったぁ。いずみんいたわ」
そう言いながら虎太郎は富美子のデスクに近づいてきた。
「職員室に入る時はノックしてから失礼しますでしょ」
咎めるように言うと
「かたい事言わないの。もうここの生徒じゃないんだし」
「何ヶ月か前まではここにいたのに、急にそんな態度ですか。高校生となれば随分変わるもんですな」
イヤミったらしくいってみた。
虎太郎はけらけらと笑った。
「実はさ…」
彼は周りの事など気にせず富美子に近況を報告した。
「えっ?高校辞めちゃったの?」
「まぁね」
「まぁねじゃないでしょ。高校くらいは出ておかないと将来大変なのよ」
虎太郎は大丈夫だよと余裕の表情を浮かべた。
「俺、やりたい事見つけたんだ」
「やりたい事?なに?」
虎太郎は高校が肌に合わなかった事。その中でたまたまテレビに出ていた左官職人に憧れを持ったと話した。
「喧嘩が特技だったからボクシング部にも入ってみたんだけど、やっぱりなんか違ったんだよな」
「喧嘩を誇らしげに話すな」
「でも、左官職人がカッコ良くってさ。日本選手権みたいのまであるって言ってて、一つのことに一生懸命取り組んでるのがカッコ良かったっていうか、なんか俺の中にスッと入り込んできたんだよ」
「で?左官職人になるって話?」
虎太郎は頷いた。
「職人の世界は想像以上に大変なのよ。下積み時代が長くてなかなか…」
「わかってるって。テレビでも凄く言ってた。十人入って一人残れば上出来だって。そういうのもひっくるめて頑張るっていう話をしにきたんだ」
富美子は驚いた。
ものの数ヶ月前まで青臭くて面倒くさい中学生だったのに、目標が出来た途端にこんなにも人というのは変われるものなのか。それがあの神林虎太郎という男子生徒とは信じられなかった。
「先生これあげる」
「これから左官職人になる。んで、日本一になるんだ」
富美子のテーブルに置かれた大小さまざまな大きさのシルバーのピアス。
「なに?」
「俺、決めたんだ。これから左官職人になる。んで、日本一になるんだ。それまで先生に預かってて欲しい」
「これを?」
「そう。一人前になったら報告も兼ねて取りに来るからそれまで預かっててもらえないかな」
富美子は虎太郎の提案通りピアスを手元にあった密閉できる小袋に入れて預かった。
「一年後かな?二年後かな?いつまでも置いておかないでよ。邪魔になるから」
虎太郎は握った手の親指を立てた。
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