本編

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「喜べ。お前に名前をつけてやる」 笑みもなければ声の抑揚もなく、ただ淡々と事実だけが伝えられたその日。あれが生死を別つ分岐であり、運命の日であった。 「お前の名前はアドルフだ。来い」 彼に名前を呼ばれたそのときから、男はただの奴隷ではなくたった一人の主人に仕える奴隷となった。 …… 従者の朝は早い。主人より遅く就寝して早く起床する職業はそれだけでハードなものだが、アドルフがそれに不満を持ったことはなかった。元より、あのとき拾われていなければ死んでいた命だ。その死体だって頭髪や衣類は剥ぎ取られ、肉は鴉が啄み野犬が齧り付き、骨すら残っていたかもわからない。 毎日安心して眠れる。それだけで幸運だと彼は知っている。 「ご主人様、おはようございます」 自然光の爽やかな寝覚めを提供するためにカーテンを引くと、柔らかな朝陽が室内に広がった。アドルフはいつも少し離れたところから朝の挨拶をする。 「……アドルフ、来い」 「い、いけません……ご主人様」 薄眼を開けた主人が寝台の上から手招きしている。主人の命令を断るなど恐れ多いことだが、アドルフは綺麗に仕立てられた執事服の裾をぎゅうと握り込みながらそれに耐えた。金の瞳には薄い水の膜が張っている。 毎朝のことであるのにまるで一つでも粗相を犯せば捨てられると言わんばかりの態度、表情にリチャードは思わず目を瞑った。この奴隷癖はいつになったら抜けるものか。 「……こっちに来て、起き上がるのを手伝いなさい」 なるべく柔らかく聞こえる声色でそう言うと、聞き分けの悪い従者がようやく寝台へと近づいて来た。 「ッ、わ、わ……っ」 「旦那様かリチャードと呼べと言っているだろう」 警戒を隠さない慎重な歩み寄りを無視して腕を引くと、軽い身体は簡単に傾いてリチャードの胸の上へと落ちてきた。身長と体重が合っていない。柳のようだ。 「お、恐れ多くて呼べません……!」 「この家の者は例外なく私を旦那様と呼ぶ。私は従者を雇ったのであって、奴隷を招き入れたのではない。私の寝室を歩くお前は奴隷か?」 「……ッ、お許しください……だ、だ、旦那様……」 耐え切れずほろほろと流れる涙を掬い取り、目尻に口付ける。それは主人と従者より恋人との褥の中を思い起こす行為だ。けれど、アドルフはそのことに思い至らない。そんなことを考える前提が存在しない。 唇と唇が触れそうになる手前、アドルフが肩を震わせ目を閉じる。その唇が青くなるほど固く閉ざされているのを見て、リチャードは身を起こした。 「今日の予定は?」 「……あ、えっと、東の商館より税についての相談が来ております。午前はそれで終えてしまうかと。午後からは書類の処理を」 「はあ……」 「昨日遠乗りに出掛けてしまったから今日は駄目ですよ。請求書の確認、明日までですから」 リチャードはもう一度重い溜め息を肺から吐き出し、ベッドから這い出た。アドルフは失礼しますと一言断り、慣れた手つきで主人のシャツに手を掛ける。ボタンを一つ一つ丁寧に外すと、その下にある均整の取れた筋肉質な身体が露わになった。 リチャードはまるで騎士のような見目をしているが、貴族領主だ。王都からかけ離れたそれなりの大きさの地方で、領主様として慕われている。都の生まれであったなら王族の近衛騎士に召し抱えられていても不思議でないくらい見目麗しく、腕が立つ。その上剣を振るうこと自体好きな性分だ。見るのも、するのも。 そうでもなければ、奴隷同士の殺し合いをさせる賭博場でアドルフと出逢うこともなかっただろう。 アドルフは厚い胸板をしっとりとした瞳で見つめ、薄く吐息を吐き出す。この方に拾われたことで名前もなかった奴隷は名前を頂き、人間として生きることが許されている。 「……アドルフ」 「は、はい、申し訳ございませんご主人様」 見惚れていたことを咎められたと判断したアドルフは即座に主人の声に反応して、肩にかけっぱなしだったシャツから腕を引き抜かせる。一方で、素肌にうっとりとした視線を一身に受け続けたリチャードは決まりの悪そうな咳払いを一つした。 着替えを手に取るため頭ごと視線を下げたアドルフは気づいてしまった。今、人前に出るのは少々障りがあることに。 「私の相手をしてくれるだろう?」 「は……い……」 ズボンを緩く立ち上げる屹立を前にして、乾いた喉からか細い声を出すのが精一杯だった。
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