俺の日常

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死にたいくらい壮絶ないじめを体験した小学時代は最悪だった。それでも理解のない両親の下では休むことが許されず、せめてもと懇願して入れてもらった私立中学でようやく穏やかな幸せを手に入れた。必死に勉強机にしがみついたのは決して楽しい思い出ではないけれど、あの努力がなければきっと今頃は世を儚んで早々に見切りをつけていたところだろう。 誰も知り合いがいない環境。それが心細いとは思わない。これから変わるのだと、期待に胸が高まる中学一年生の春。 そんなことを思い出していた、高校一年生の春。 「…… 羽曳野(はびきの)?」 聞き覚えのない声だった。だが、似た声を知っている。声変わりを迎える前の少年特有の高い声。それが未だ耳に残って消えないのだ。 その声と、よく似た声をしていた。 「…………鹿波、くん?」 花弁の舞う桜の木の下で、俺たちは再会してしまった。 殺したいほど憎い人がいる。 毎日にやにやと馴れ馴れしく……否、にこやかで友好的に話しかける男。鹿波乃樹(かなみだいき)。彼と古い知り合いだというのは早々にクラス中へ知れ渡ってしまった。自己紹介の際、よりにもよって僕の名前を使ったからだ。 「同中出身が一人もいないところに来たので、友達が小学校が一緒だった羽曳野しかいません。お手柔らかにお願いします」 自分がいじめの主犯でしたと黙ったまま、よく俺の名前が出せたものだ。俺は教室に入り鹿波くんの姿を見ただけでも頭が真っ白になったというのに。お陰で考えていた言葉が半分も口から出ず、消え入るような声でかろうじて言えたのは名前と「よろしくお願いします」という結びの言葉だけだった。 せめて浮かないようにしようと思っていたのに、上手くいかない。悔しいが見た目だけは格好いいと言わざるを得ない鹿波くんは早々にクラスの中心となり、反対に俺は声が小さくて暗いやつと位置付けられてしまった。 自分でも根暗だとか、人のせいにするなとか、そんな気持ちもある。それでも考えてしまうのだ。 彼さえいなければ。 嫌な思い出しかない小学校を卒業して入学した私立中学は頭が良いことで知られる有名校だった。偏差値の高い学校からでも上位ほんの数名しか行けないようなところ。だから、勉強のべの字も知らない崩壊寸前の学級からの入学者なんて俺のほかに居るはずがなかった。 高校も同じくらい偏差値の高いところを選んだ。無理に入学し直さなくても、中高一貫の私立校はエスカレーター式に上に上がれる。けれどそうしなかったのは、高等部は中等部に比べ偏差値の低いことが気になったからだ。偏差値が低くなってもネームバリューは変わらない。現に高等部からの編入者の数は中学受験の比ではないらしい。外部生が増えたことが遠因で授業の質は下がるし、いじめもあるのだと聞いた。 内部だからこそ聞こえてくる噂もある。向上心が大好きな親には上を目指せるのだから目指すべきだと説き伏せて、自分が目指せる中で最上位の高校に入学した。 それなのに。 「羽曳野ォ、昨日鈴木がホテル街でババアと話してるお前見たっつってんだけどさ……援交してるって噂マジ? あ、鈴木って覚えてる? 同じクラスだったよな、忘れるわけないか」 「きゃははっやだー、鹿波くん、こいつがそんなん出来るわけないじゃん!」 「え、ていうか羽曳野童貞じゃねぇの? いかにも相手居なさそうだろ」 そんな噂知らないし、身に覚えもない。本当に見たのかも知らないし、そこに居たのが僕に似た誰かであっても関係ないんだろう。それでも反論するより黙っているほうが楽だから、黙っている。こんなの日常茶飯事の会話だ。そう思い黙って聞き流せるレベルにまで達してる。 昔はこういうことはなかった。あの頃のいじめがマシだったとは全く思わない。でも、今のように性的なものが混じったものは一つもなかった。あの頃はまだ子供だったからだ。子供特有の度を超えた残酷さを身に沁みてわかっているから、それが良いとは言わないけれど。 今日はまだ良い方だ。 今日はまだ、机に花が生けてあったのと、時間割変更の連絡が回って来なかったのと、弁当ぶちまけられたのと、今の会話で済んでる。少し迷惑だけれど、怖いことは一つも起きていない。 鹿波くん以外は昔の俺を知らない。何を言われても言い返せない気弱な生徒にしか見えていないのだろう。鹿波くんだけだ。彼だけが知っている。机を囲むように立たれると怖くてその場から逃げ出せなくなる理由、首や肩に触れられると身体が震えてしまうこと、腕を伸ばしても手首がすっかり隠れるほど長い制服の袖の意味、目を合わせて喋ることすらできない原因を。 根暗で嫌なやつ。俺は自分が好きじゃない。 俺がこんなだから、何も知らない同級生すら鹿波くんに加担するのは悲しいが理解できた。ただでさえ俺と彼は初対面ではないのだと知れ渡っている。旧知の仲で片方がにこにこと笑い、片方がそれを怒ったり窘めたりしないのだから、これが普通だと思うのだろう。 いじり役といじられ役。よくある構図だ。俺だってそれだけならいじめだなんて大袈裟に扱わない。皆もそうだ、だから加担してる。 無理やり食べさせられた昆虫の味も、ページを破られた教材の教科も、両親に失くしたと嘘を吐いた物の数も、知っているのは俺だけ。
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