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「大丈夫……、……大丈夫」
自分に言い聞かせるため小声で何度も大丈夫、と繰り返す。そうでもしないと、正気を保てる気がしないから。昔からの癖だ。こんなことは訳ないのだと言い聞かせる。必死に落ち着かせないと、無理をして過呼吸を起こしたことがある。
でも俺には、そんなささやかな反抗さえ許されない。
「何ぶつぶつ言ってんの? きっめぇな。妄想と現実の区別つかなくなっちまったのかよ」
「いつか通り魔事件とか起こすんじゃなーい? やだぁ、こわぁいっ」
「ちょっとー、ハビキノくんすごい目で見てんじゃん! あははっ」
きゃあきゃあと、取り巻きの女子達が同調する。このクラスの人が鹿波に反論するなんてあり得ない。
どうして俺は、鹿波の呪縛から逃れられないのだろう。
悔しくて悔しくて、でも現状を悪化させたくなくて、気がつけば取り返しのつかない事態になってた。始まりだって何が悪かったのか今もわからない。きっと何もなかったし、何でもよかったんだろう。今もいじめを再開したのだって、きっと理由なんてない。
鹿波に同じ小学校だったと皆の目の前で話し掛けられて、肩を抱かれ女子から好奇心と嫉妬の視線を頂いたあと。彼の笑えない冗談は武勇伝のように語られた。
「懐かしいよなァ、あの時の傷まだ残ってる? 調理実習のとき思いっきり熱湯ぶっかけちゃってさぁ。ガキだから結構えげつねーことしたよな」
「うん、あるよ」
「修学旅行の班、羽曳野誰と組んだっけ? ……あぁ、仕方なく俺と同じ班だったか」
「うん、前の日に風邪引いて休んだけど」
「なんか毎日泣いてた覚えしか無いんだけどさ、羽曳野って笑わねえの?」
いつかの会話を思い出した。あのとき何て答えたんだったか。思い出せない。
どこで答えを間違えたのかわからない。正解がわからないんじゃなく、不正解を探しきれないのだ。だから改善できない。きっとこのまま、またあの日々を繰り返すことになる。せめてあのときちゃんと反論していれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
「………」
校則を無視した長い前髪の合間から目前の男を見つめる。
今も昔と変わらない、俺より高い位置にある頭。モデルみたいな顔立ち。勉強ができて運動神経抜群で、そのうえ会話上手。
ドラマや漫画の登場人物みたいに欠点のない人。まるで物語の王子様のような彼は、皆の憧れだった。
「鹿波、そんなことよりこれ教えて」
「あぁこれ? これは39ページにある公式使って……」
いや、今だって皆の憧れだ。
どうせ、俯いていても顔を上げていても誰にも気にされないし、何処を見ているか区別もつかないだろう。そう思い、俺をいじめるときと全く違う表情で笑う鹿波を眺めた。彼の同級生に見せる顔は俺を見る嫌なものとは全く違う。
……楽しそう。
俺だって、あんな人生送りたい。
高校生らしく楽しく毎日を過ごして、笑って、怒って、泣いて。そんなの当たり前のことなのに、どうして我慢しているのだろう。
「……ぁ、」
一瞬、鹿波と目が合った。
顔は前を向いていたし、どうせ顔の半分を覆う前髪で俺の視線の先なんて分かるはずない。慌てて下を向いたが、にたにたと笑った鹿波が席を立つのが見えた。
「はぁーびーきーの、何きっもい顔で俺のこと見てんの?」
「ッ、……見てないよ」
かろうじてか細く反論の声を出す。けど、どうせ何を言っても聞いてはいない。満足に言い返すこともできないのは、彼の機嫌を損ねればそのあと何が起こるのか想像がつくから。
これが、俺の日常。
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