はじまり

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✧ ✧ ✧   プロクス=ハイキングが三代前の王から騎士王を拝命し、はや五十年。  たくさんの妖魔を屠り、国を守り続けてきた。昔なら騎士たちを率いて戦ってきたものを、今はたった一人で仕事をこなす。 「良い風だ」  そう呟くプロクスの足下で、蟲は相変わらず「ギョォォ」と喚いている。  雲の切れ目から見知った村が見え、プロクスは蟲から剣を抜いてふわりと飛び降りた。その頭上で蟲が甲高い悲鳴を上げて、あっけなく砕け散った。他の蟲も同様に、手のひらで握りつぶされたかのように砕けてしまう。  まるで、見えない壁にぶつかったかのように――ではなく、実際に魔法の壁があった。  女神ハルディアの守りの壁、【結界(ドーム)】。  子供とその母の守護者たる女神は、このサンクトランティッド帝国において厚く信仰される、建国神話に登場する一人だ。  大戦後、国に侵入を続ける妖魔を阻むため、女神ハルディアが精霊と契約し、与えられたのが【戦火(オラシオン)】。  精霊は言った。【戦火】が燃え続ける限り、この国は守られると――。 【戦火】は各地の神殿に配置され、昼も夜も燃え続け、結界の力の源となった。  その一方で、結界の外である荒れ地は空白地帯と呼ばれ、異形の潜む土地となった。今では帝国から人は立ち入らず、また入るにも通行証が必要だ。  ――そんな危険な森に、プロクスはまっすぐ落下する。空中で体勢を変え、ガツンと剣を突き立てて着地した。  プロクスが静かに立ち上がり、一歩踏み出すと、足の先から白い炎が上がった。それは全身をみるみる覆い、唐突に消える。  すると、現われたのは白鷺の騎士の時よりも、頭三つ分ほど小さくなった者。  口と目をのぞき、頭のてっぺんまでくまなく覆う白い頭巾。白いリネンの服、袖は肘までの長さで、そこから見える白い肌には朝顔の蔦が這うような紋様が見え、螺鈿のように輝く。その両手には銀の輪が填められていた。 「ぷはぁ」  ――ふいに、可愛らしい声が響いた。彼女は、顔を覆う布を勢いよく引き上げて、ほんの少し顔をさらした。  そうして露わになったのは、天使のように愛らしい顔。  透き通るような肌、整った鼻梁、やわらかな口元。子供のようなあどけなさの残る、優しい顔立ち。弧を描く眉、長い飾りのような睫の下に、夏の夜のような青い瞳。光を透かさずとも、その不思議な眼は星を散りばめたよう。 「良い天気……あ、声が」  彼女は咳き込みながら、自らの喉に手をやる。そこにはきらりと輝く円形と三角を重ねた、小さな魔方陣がある。  プロクスがあー、あ、あ、あー、と一人で声の確認をしていると、それは次第に低い男性のものへと変わる。ようやく納得の低さになると、プロクスは布を戻した。  彼女はとことこと歩いて、引っかけていた草色の膝丈のフード付きのローブを身に着け、短剣の長さに縮めた雷蹄をベルトに差す。そして、最後の仕上げに麦わら帽子を被る。  森を出て、伸びきった草の間を歩く。先ほどの戦闘が、嘘のような静かな土地。指先で、やわらかな青い葉に触れながら、プロクスはゆっくりと深呼吸する。  タッタ、と軽快な足音が近づいてきた。  道の向こうから、灰色のロバがこちらに歩いてくる。目の前にやって来たロバは、差し出されたプロクスの手に自らの黒い鬣をすりつける。 「アシリータさん、今日もお迎えありがとう」  ロバのアシリータは、プロクスがここの領主である「グラディウス侯」となり、四十年目を記念して領民から贈られたものだ。領民たちは、侯爵を親しみ込めてこう呼ぶ。  ――ロバの騎士様。  三代前の王の時代に起きた大規模な妖魔発生を食い止めた英雄。竜に跨がり敵と戦った勇壮なる騎士。  そう讃えられたプロクスは、王から望みの褒美を与えると言われ、大好きなロバを所望した。もちろん、王はそれだけでなく、プロクスが暮らすための土地もくれた。まさしく余生に相応しい、静かな土地。  この穏やかな生活は、退官まで守らねばならない。  そのために、プロクスは不老のこの顔を、決して人前でさらしてはならないのだった。
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