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「次のニュースです。全国の工事現場で、まだ乾いていないセメント面に足跡がつけられるという被害が多発しています。しかもその足跡が猫の絵になっているというのです」
栃木県の、とある建築会社の社内。
松岡は後輩の吉田とテレビを見ている。
「それはある所ではペルシャ、ある所ではマンチカンと、すべて見事な猫の絵になっているのです。近所の方に伺うと‥」
「なにが見事だよ、えげつないことしやがんなまったく!」
松岡がしかめっ面でボヤく。
「ね!言ったとおりでしょ!?」
吉田は嬉しそうだ。ついこの間、建設業界でウワサになっていたこの事件を松岡に話したら笑われた為である。
「もしウチにやりやがったら絶対とっ捕まえて警察に突き出してやるよ!」
親指で鼻をほじって熱いお茶をすする松岡。
「でもけっこう有名な芸術家達が、この犯人の才能を認めてるらしいですよ」
「マジかよ」
少し驚いた顔で吉田を見る。
「あれっ、松岡さんそろそろ保育園のお迎えの時間じゃないんですか?」
「あっ!しまった!ゆっくりしすぎた!」
慌てて机の角で腰を打つ
「あいたっ!」
「ハハっ!なにやってんすか」
「イテテテテテ‥、あぁ、クソ。嫌なこと思い出しちまった」
「どうしたんですか?」
「胸くそ悪い女がいるんだよ、保育園に」
栃木県のとある保育園。
午後6時。お迎えで大勢の保護者や子供たちが行き交う。
「こんちゃ〜す!おつかれ〜す!あぁ!宮本さん、この前はどうも!いえいえこちらこそ!よぉ〜ボウズ!今日も活きの良い鼻水ぶら下げてんな!」
ひとつ下のクラスの男の子の頭をワシャワシャとしながら担任の先生と談笑する松岡。
他人との間に壁を作らず、初対面でもすぐに打ち解けられるが、それがコミュニケーション能力があるという事かどうかはまた別の話である。
バン!ドタドタドタ!ドタドタドタ!
不機嫌まるだしの女が保育園に入ってくる。
「来たな」
顔が曇る松岡。
「こんにちわ〜」
にこやかに挨拶をする同じクラスのお母さんを無視して通り過ぎる女。
「おかえりなさ〜い」
満面の笑みで挨拶をする先生をやはり無視して通り過ぎる女。
1人タイムアタックをしながら我が子の荷物を次々とまとめていく女。
荷物と子供をかっさらって嵐のように去っていく。動きにいっさいのムダがない。余計なことはしない。人と馴れ合うつもりは毛頭ない。
苦々しい顔で女を見送る松岡。
彼もまた何度も無視された経験者である。
人とすれ違う度に誰であろうと挨拶をするような、やりすぎ松岡にとっては、ましてや向こうから挨拶をされて返さないなど考えられない所業なのである。
栃木県内の、とある住宅建設予定地。
基礎のセメントならしが終わり、缶コーヒーを片手に縁石に座って休憩中の松岡と吉田。
「吉田ぁ、お前だいぶ腕上がってきたじゃねぇか」
「えっ!ほんとですか!?」
笑顔でセメント面を見直す吉田。
すぐに真顔に戻る。
「でもまだ僕と松岡さんがやった所の境目が一目瞭然ですよねぇ」
「そりゃおめぇそう簡単に追いつかれちゃあオレの立場がねぇよ。でもよく頑張ってるよ吉田は」
「いえいえ、滅相もないですよ」
と言いつつ嬉しそうな吉田である。
およそ40坪の敷地の一階の間取りに杭が建てられており、その枠の中にキレイに下地のセメントが塗られている。建物を建てる際の基礎の土台であり、この時点で建物の良し悪しが決まると言われている。朝になればカチカチに固まるが、今はまだ柔らかく、押せばへこんでしまう状態だ。
「そういえば、隣町の現場で出たらしいですよ、足アート」
「あしあーとぉ??」
「例のセメント踏んで絵描く奴ですよ。その絵がなまじ上手いから、メディアは面白がってアート扱いですよ。和製バンクシーだって」
「なぁにがアートだ馬鹿野郎!よく言えんなそんなこと!やられた現場のやつらはたまったもんじゃねぇよ!」
「ウチにも来ますかね、バンクシー」
ぐいっとコーヒーを飲み干す松岡。
「今晩、オレ見張っとくよ」
「えっ!じゃあオレも見張りますよ!」
「いいよ、いいよ、もしマジでヤバそうな奴だったらすぐに警察に電話するから。それに今日あんだけ動いたんだから、ゆっくり休んどけ。明日持たねぇぞ」
「‥わかりました。でも何かあればすぐ電話して下さいね!」
「おぅ。じゃあまた明日よろしくな」
吉田の肩をポンと叩いて立ち上がる。
午前1時。真夜中。
先程の住宅建設予定地から少し離れた所で車の中から見張っている松岡。
警戒されないようにエンジンは切ってあるので、かなり寒い。カイロをガシャガシャしながら毛布にくるまってギリギリだ。
しかも眠たくなると思い、夜は抜いたので余計に体の芯から寒い。
缶コーヒーを飲んで息を吐くとフロントガラスが曇った。
「1時か。‥さすがにもう来ねぇかな」
うつらうつらとしてくる松岡。
カツっ、カツっ、カツっ
遠くの方で足音が聞こえて、だんだん近づいてくる。
ドキリとする松岡。
どこかで聞いたことのある足音のような気がする。
カツっカツっカツっカツっカツっ!!
姿勢のキレイなスーツ姿の女が1人タイムアタックしながらやってきた。
あの女だ!まさか!?
身を乗り出して食い入るように見る松岡。
女が住居建設予定地の前で急ブレーキをかける。
手前には松岡たちが張った立ち入り禁止のロープや看板がある。
「おいおいおい、マジかよ」
松岡の鼓動が速くなる。
女の動きはやはり迅速だった。
ハイヒールを脱いで、足先のパンストを引きちぎって素足になり、上着を脱ぎ捨て、少しの躊躇もなくロープをくぐって中に入る。
人目を気にしたりする様子は一切ない。
ちょうどセメントの真ん中あたりに来た所で立ち止まり、一拍おいてから両手を伸ばして大きい深呼吸を3回連続で行った。
ドキドキしながら見ているだけの松岡。
完全に興味の方が勝ってしまっていた。
すまん吉田。
しかしあの女が本当にウワサの和製バンクシーなのか?
女が突然勢いよく足を踏みしめ始める。
やりやがった!
取り憑かれたかのように一心不乱にセメントを踏んでいく。
車からは少し距離があり、街灯も薄暗いので
セメント面は見えづらく、女がただの「犯罪者」なのか「芸術家」なのかを判断することは難しかった。
しばらく様子を見ていた松岡が、当然すぐに沸き上がってくるであろうと思っていた怒りの感情が一行にやって来なかった。
それは恐らく、女から何かに対する不満や嫌がらせをしたいが為にやっているという雰囲気が感じられなかったからだ。
もし、それが少しでも感じ取れれば松岡はすぐに女の首根っこを掴みに行っていたであろう。
そしてそれは、むしろ絶対にやらなくてはならない「作業」をしているようにも見えた。
バレリーナが舞台の上で踊るのを誰もおかしいとは思わないように、あの女があの場所であの「作業」をするのは当たり前のことのようなオーラがあった。
好きにやらしてやろうかとも一瞬考えたが、
しかし松岡は現場の責任者としての立場があるし、吉田の顔もよぎる。
やはり止めるべきだと判断したころ、
女は何を思ったか、次々に身に付けている衣類を脱ぎ捨て始めていた。
邪魔だ!とでも言うように端へ投げ捨てる。
おい!おい!おい!と思っているうちに、とうとう素っ裸になってしまった。
豊かな乳房をユサユサと揺らして、やはり人目を全く気にすることなく足を踏み続ける。
誰か来たらどうすんだよ!?
見ているだけの松岡がアタフタし出したが、本人は「作業」に没頭している。
「なにやってんだアイツ、やべぇぞ」
と言いつつ少し鼻が膨らみ前のめりになる松岡。
女の体からボウボウと湯気が立ち上がる。
あれだけ動いていたら本人は全く寒くないのだろう。
全裸になるのも、いつもやっている事、という感じがした。
さすがにアレはほっとくわけにはいかないと思いつつ、しばし女の体を堪能してから車を降りた。
あっと思い、毛布をひったくってから現場に小走りで近づく。
ロープの手前で身振り手振りで自分の存在を気づかせようとする松岡。
人が来ないかも気になり挙動不審になる。
変な誤解をされたらたまったもんじゃない。しかし女はまったく気づかない。
「ぉおい!ぉおい!」
ヒソヒソ話の最大音量で呼ぶ。
気づかない。
「ぉおおおい!!ぉおおおい!!」
さらに声を枯らしながら小声で呼ぶ。気づかない。
「あぁもうっ!」
ロープをくぐろうとした時だった
「入るな!」
キッとこちらを睨み、左手で制す女。
まるで鬼のような形相だ。
「もう少しだ。そこで待て」
「はぁ??待てとはなんだコラ!おまえ自分が何してんのか分かってんのか?おい!」
「入ったら殺すぞ」
目が据わり、ドスの効いた声。
蛇に睨まれたカエル。
松岡は体が固まったまま、下アゴだけグッと前に突き出して降参の意思を示すのが精一杯だった。
そのあとも薄暗い極寒の中、彼女は動き続けた。
ある場所は優しく、ある場所は強く深く踏み、広いセメント面を行ったり来たりしながら踏み進めていく。
先程よりさらに全身から湯気がボウボウと湧き出てきた。
松岡は周囲を気にしながら、とにかく寒すぎて、しゃがみ込んで震えていた。
もうオッパイも淫部もどうでもよかった。
とにかく早く終わってくれと願った。
車に戻りゃいいのに思考が停止してしまっていた。
しばらくすると足音がしなくなったので顔を上げてみると、女は肩を大きく上下させて息を切らし、舞台の中央に立っていた。
女の足元には40坪の大きさの1匹の猫が鎮座していた。
「圧巻」
寒さではない震えが松岡の体を走った。
車から見ていた時はわからなかったが、ロープのすぐ外側の位置から人が立って1番良く見えるように描かれている。
少し離れたり近づきすぎても分かりにくいし、ナスカの地上絵みたいに真上から見たらそれこそ訳がわからないだろう。
ふぅーと大きく息を吐く。
散らばった衣類を拾い上げて肩に引っ掛け、こちらにゆっくり歩いてくる。
そのあまりの勇ましさに、激闘の末にドラゴンを討ち取った女戦士かよと心の中でツッこんだ。
ロープをくぐり松岡の前に立つ女。
近くで見ると、乳首がとてつもなくキレイなピンク色だった。
「ああ、アンタあれか、保育園の」
喋り方に抑揚のない女。
「あ、ああ、そうだよ。んで、ここの責任者だよ」
寒くてうつろな目の松岡。
女に毛布をぱっと被せてやる。
足に目をやると膝から下にセメントがこびり付いている。
「それ早く流せよ、あっちに水道あるから。ほっとくとえらいことになるぞ、分かってるだろうけど」
足を流した女に、現場にあったタオルを貸してやる。
「えっきしっ!」
女がクシャミをする。
「とりあえず車乗れ!ほらっ!んで服着ろ!」
ボー!!車内の暖房がMAXでかかる。
「あんた家どこだ、送ってやるから」
「保育園まで行って。そこからは自分で帰る」
沈黙が続く。
女は虚ろな目で微動だにせずまっすぐ前を見ている。
松岡もまた疲れ切っていた。
「子供ほったらかして何してんだよ」
イラついている松岡。
「もう寝てるよ」
「夜中目ぇ覚ましたときに、母ちゃんいなかったら泣くだろ」
「そんな柔な育て方はしてない」
「柔って、まだ3歳ぐらいだろよ」
呆れる松岡。
またしばし沈黙。
「おまえ、オレら土建屋になんか言うことあるだろ」
「別に」
「あぁあ!?」
「感謝はしてるよ。いつも最高のキャンバスを提供してくれて」
絶句の松岡。
もっと他の表現方法ないのかよ。紙で良いじゃねぇか。人様に迷惑かけてまでやることかよ。セメントやり直すのにどれだけの労力と金がかかると思ってんだ。
‥‥何をどう言ってもこの女はアレをやめないだろうし、あれだけの情熱と才能を押し込めてしまうと、もっと厄介な事をこの女はしそうな気がして、言うのをやめた。
「でもさ、なんで猫なんだよ」
「好きだからに決まってんでしょ」
女はイラついて松岡を見た。
次の日。
午後6時。保育園のお迎え。
ドタドタドタ!ドタドタドタ!
タイムアタック乳首ピンク色女がやってきた。
子供と荷物をかっさらう。
ドタドタドタ!ドタドタドタ!
しゃがんで荷物をまとめる松岡の前に仁王立ちする女。
「えっ!?なっ、なんだよ」
動揺を隠せない松岡。
「あたし、もうアレやめるよ」
「えっうそ!やめんの!?」
声が裏返る。周囲がチラチラとこちらを見る。
「今日で最後だよ」
「やんのかい!」
「皇居の宮殿がさ、いま建て替え中って知ってた?」
「‥‥ん?」
「夜中1時。ここの前で集合。車よろしく」
ドタドタドタ!ドタドタドタ!
「ちょ!おいっ!!」
青ざめる松岡。
ヒソヒソ話を始める周囲。
翌日、宮殿の跡地で、どでかいアメリカンショートヘアーが欠伸をしていた。
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