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おまじない
お互い席に座り、櫻井さんが口を開こうとしたところで他の生徒たちが談笑しながら入ってきた。
なんだか居た堪れなくなり前を向こうとすると、櫻井さんが小声で「また後でね」と言ったので、小さく頷いて前を向いた。
どうやら先程櫻井さんが言っていた事は当たっていた様で、ドアの隙間から見える廊下は生徒で溢れかえっている。もしあの中を通って来なければいけなかったと思うと…早々に出てきてよかったのかもしれない。
しばらくして人混みが収まり、教室の席が埋まった頃、ドアを開いて先生らしき人が入ってくる。
先生は2人いて、1人は小柄で元気そうな女の先生で、もう1人は背の高くて無表情の男の先生だった。担任と副担任だろうか。いつもの癖で視線を下に落とそうとしていると、小柄な先生が口を開いた。
「皆さん初めまして!このクラスの担任になりました、国語担当の中村志歩です!そしてこちらが、」
「副担任、数学担当の氷室巽です。」
「これからは私たち2人で皆さんの学校生活を楽しいものにしていきたいと思います!よろしくお願いしますね!」
ハキハキと話す中村先生と最低限を淡々と話す氷室先生にはなかなか共通点を見出せないが、2人の間にはなんとなく柔らかい空気感があるようで、俺以外の生徒たちもまばらな強さではあるが拍手を送っていた。
ニコニコと笑顔で拍手に対してのお礼を言った中村先生はでは、と口を開く。
「まず最初に、皆さんには自己紹介をしてもらおうと思います!順番は出席番号、好きなものなどは自由でいいのでお願いします!」
先程とは変わらぬ笑顔で、先生は強大な爆弾を落としていった。
自己紹介。それは学校生活を送っていく上で避けられないイベントである。自分の名前と好きなものなどを言い、なるべく多くの人に関心を持ってもらうものだが、俺には異次元の世界のイベントの様なものである。
早速1番から始まった自己紹介に冷や汗をかいて体を強張らせていると、後ろから肩をつつかれる。
「…ねぇ、大丈夫?自己紹介言えそう?」
案の定、振り向いたそこにあったのは心配そうに眉を顰める櫻井さんの顔だった。俺は顔面蒼白になりながら口を開こうとするが、なんだか先程のようには上手く言葉が出ずに詰まらせてしまう。…このままでは、自己紹介などするレベルにも行けない。
口を閉ざしたまま固まる俺を少し見つめた後、櫻井さんは俺の手を取った。
「ぇ、?!」
「ごめん、ちょっとだけ手を貸して?」
普段感じることのない、自分ではない人の手の感触に混乱していると、力が入りっぱなしだった俺の手をゆっくりと開き、櫻井さんが小声のまま続ける。
「相模くん緊張してるから、おまじないね。」
「…おまじない?」
俺の言葉に小さく頷いたかと思うと、櫻井さんは人差し指で俺の掌に『人』と3回書いた。
「これ飲むとね、緊張しなくなるんだよ。私もやった事あるから、相模くんも大丈夫だよ。」
眉を下げて微笑むと、俺に飲む様に促す。俺は『人』と書かれた辺りの掌を飲む様なふりをすると、なんだか先程までよりは胃も痛くないし、体の力も抜けている気がする。
不思議に思っていると、櫻井さんが「次だよ」と俺の前を指さした。慌てて前に向き直ると、丁度俺の前の人の自己紹介が終わった所だった。
後ろから聞こえる「がんばれ」という柔らかい声に後押しされる様に立ち上がると、教室の多くの視線が俺に集まるのが分かる。足が竦むような感覚に至るが、深呼吸をして、なんとか言葉を口にする。
「…相模、晴、です。好きなものは、えっと、特にありません。…よろしく、お願いします。」
なんとか教室に聞こえるであろう大きさの声を出し、そう口にすると、まばらな拍手が起き、俺は力が抜ける様に座った。
すると、俺が座ったすぐ後に後ろから椅子を引く音が聞こえる。
「櫻井澪です。好きなものはお菓子と写真です。1年間よろしくお願いします。」
柔らかく、それでいてハキハキとした声で自己紹介を終えた櫻井さんが、座りながら俺の方をチラリと見る。不意に合った目に少し驚いていると、彼女はまた口を開いた。
「相模くん、やったね。ちゃんとはっきり言えてたよ。素敵な名前だから、きっとみんなもう覚えたね。」
なんてこともないように笑ってそう言う櫻井さんに、俺はなんとも言えないふわふわとした気持ちを感じた。俺の名前は別に素敵ではないのでは、とか、はっきりは言えなかったとか、言いたい事はあったのに、俺の口から出たのは咄嗟の言葉。
「櫻井さんの、おまじないのおかげ、だから…」
その言葉を聞いた櫻井さんは、目を丸くしてから、力が抜けた様に笑って、どういたしまして、と言った。
おまじないじゃなくて、魔法だったのかもしれない。
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