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2人が向き合っていると、空き地へと音符が風に乗ってやってくるのを、真実、そして由美も気が付いた。
鈴木家のベランダから、ピアノの旋律が流れてくる。透明の五線紙のリボンが、鍵盤からふわふわの絨毯の上、トロフィーの飾られた棚を通り越して、空へと伸びていく。
誰か別のレッスン生が弾くメロディに、ご機嫌な由美が肩をゆらす一方で、真実はレッスン中に鈴木講師が何度も注意するフレーズを、頭の中でくり返す。
『指は伸ばさずに、やさしく鍵盤にそえること』
いつでも手はまあるく、指は優しく触れるように、ひっかけないように。指をまっすぐのまま、爪を立ててしまうと、鍵盤を傷つけてしまうから。
2足の靴を突きつけられた時、真実の手のひらは、爪先でめり込んだ跡でいっぱいになった。
ピアノ曲が流れる間、会話を交わすことなく、由美も真実もじっとしていた。
和音が、『少しずらして重なり合う』アルペジオ<Arpeggio>で終わると、突然、メロディが変わった。2人は、「あ」と同時に口を開く。
『少し弱く』、メゾピアノ<mp>で黒鍵を何度も踏むメロディは、2人の耳におどけるように軽快に響く。
♪猫踏んじゃった。
♪猫踏んじゃった。
半音ばかり使った、変ト長調の旋律に合わせて、スニーカーの先を潰すように由美がステップを踏む。空と同じ色をしたスニーカーの表面、真実が付けた足跡を気にも止めない。
『ねぇ、真実ちゃん。お願いがあるの』
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