1「オレとお風呂に入ってください」

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1「オレとお風呂に入ってください」

 私の名前は香坂昭彦。とある企業の人事部で働いているしがないサラリーマンだ。  三十二歳で一人暮らし。趣味と言える趣味もなく、毎日家と会社を往復する、何の変化も変哲もない毎日。  そんな平凡で平坦な日々に数週間前変化が起きた。  住んでいたワンルームマンションから1LDKのマンションへと引っ越した。そしてそこで―― 「こーさかさん! この荷物どこ置けば良い?」 「あぁ、それは私の私物だからこっちの部屋に置いておいてくれ」 「うぃーす」  恋人と同棲を始めたのだ。  十歳年下で同性の恋人。名前は「青野渚」。名前の通り髪の毛を真っ青に染色した私とは真逆でやや――少し――結構――かなり派手な見た目の青年だ。性格も明るく柔軟な考えが出来、誰に対してもフランクで直ぐに打ち解けられる……口下手でよく「冷たい」「何を考えているかわからない」「怖い」と言われる私にとっては羨ましく憧れる性格の持ち主である。  彼と出会ったのは二年半と少し前。帰り道の途中、突然ぶつかってきた不良に絡まれた私を、拳等一切振るうことなく追い払い救ってくれたのが渚くんだった。  その後、色々あって連絡先を交換した私達は色々あって交際を始めて二年半。大学生だった渚くんが卒業し、就職するタイミングで私が借りていた部屋の契約更新が重なったため、今がチャンスだと私から同棲を持ちかけたのだ。  その私の提案に彼が頬を赤らめつつも元気に頷き、今に至る。  今までは会社でどんな辛いことがあっても、どんな理不尽な難癖とつけられても、定時十分前に上司から「突然だけど、今から○○くんの面談するから、一緒に来てくれない?」と言われ一時間を超える面談という名の雑談会に連れて行かれたときも、家に帰ったら待っているのは冷え切った部屋と冷たいベッドだけだった。  けれど今は違う。家に帰ったらエプロン姿の恋人が天使のような笑顔で「おかえりなさい」と言ってくれる。食卓の上には温かいご飯があって、二人一緒にベットへ入れば体だけでなく心も温かくなった。  今までの暮らしとはあまりにも違いすぎて。今まで彼と一緒に過ごす時間も果てしなく幸せであったが、それを上回る幸せが毎日降り注いできて、正直毎日が夢なのではないかと思ってしまう。  もしかしたら、これは彼との出会いから仕組まれた大がかりなドッキリで、ある日家に帰ったら渚くんがテレビでよく見るあのプラカードを持って、お決まりのジングルを高らかに歌い上げるのではないかと疑ってしまうほどだ。  そう思っていることを彼に話すと「そんなわけないって」と呆れた笑顔が返ってきて心底安心する。これは夢でもドッキリ企画でもない。こんな幸せなことがあっても良いのだろうか。こんな天使を私が独り占めしてしまって良いのだろうか。  そう悶々と考えている私が渚くんに対してある悩みと疑念を抱き、不安に駆られるようになったのが、三日前のことである。  渚くんは、お風呂に入る時間が長いのだ。  私自身がほぼ烏の行水状態で、浴室滞在時間が短いが故にそう感じるのだろう。それに渚くんはアパレル店員で何時も見た目に気を遣っているお洒落さんだ。私が知らないスキンケアを沢山しているのだろう。最初のうちはそんなことを思っていた。  だが、入浴時間が短い私から見ても彼の入浴時間は長く、長いときは一時間以上浴室から出てこない。それに、スキンケアも――顔になにやらたくさん液体をつけたり、体に良い匂いのするオイルを塗ったりしている――どうやら入浴後に行っているらしく、それならなお一層「浴室で何をしているのか」という謎と疑念が深まった。  それに、彼は必ず私より後に風呂に入る。  私の帰りがあまりにも遅くなった日には、さすがに先に風呂へ入っているのだが、そんな時私が風呂へ行くと浴室は必ず換気されていて、しかも何故か浴槽の湯が張りなおされているようなのだ。  衛生面を考えて風呂の湯は一日で入れ替えるようにしているため、何時も彼は風呂を出るときに浴槽の栓を抜いて出ている。それによる癖なのかもしれないが、さきに風呂に入ったときにまで、湯を抜きまた湯を張る必要はないだろう。それでも彼は自分が浸かった浴槽の湯を捨てる。まるで、自分が入った後の湯を誰かに見られたくないかのように。  それだけではない。彼は私に何か「物」を隠しているようなのだ。引っ越しの際、彼は某通販サイトのロゴが印刷された段ボールを大切そうに、愛おしそうに抱えていた。その箱を私が受け取ろうとすると彼は顔を引きつらせ全力で頭を振ると、箱とともに洗面所へ消えていった。  その箱の中に入っていたのであろう何かを仕舞った棚を、私は彼に「絶対に開けないで!」と念押しされている。間違えて開けてしまったときには何度も中を見ていないかを確認された。その時は咄嗟に「見ていない」と言ったが、棚の中には何やらボトルと長方形の缶敷詰められていたのを覚えている。  一体彼は浴室で何をしているのだろう。あのボトルや缶は一体何なのだろう。彼は一体、私に何を隠しているのだろう。そんなことを考えていると、仕事も碌々手につかなくなってしまった。 「あんたが悩んでるなんて珍しい」  昼休み明け。人事部に用があったらしい経理部配属の同期「早瀬麻由子」にそんなことを尋ねられてしまった。あまり感情が顔に出ることがなく、事実同じ部署の誰にも悩みを抱えていることを気付かれなかったため驚いていると早瀬は溜息交じりに「何かあったの」と空きになっているデスクの椅子を引きずり私の隣へ腰を下ろした。これは私の悩みを聞くという名目でサボる気である。  ここはサボりを咎めなければいけない所なのだが実際自分は悩んでいるし、一人で解決できる気もしないため私は休憩の意味も込めて彼女にあのことを相談することにした。 「実は、恋人が、」 「はぁ!? あんた、恋人いたの?」  彼女の声が部署全体に響く。すると今まで仕事をしていた面々が一気にこちらを向いた。所々からひそひそ声も聞こえる。だが予想できない反応ではなかったため私はそのまま話を続けた。 「あぁ。二年半の交際を経て、先日やっと同棲を始めた」 「それなら早く言ってよ! あんたが全然そんな気を見せないせいで、うちの部署の親父とお局どもが「早瀬さんは何時になったら結婚するの?」「そういえば、人事部の香坂くん。まだ独身だったよね?」「二人、結構お似合いだし……アタックしちゃえば?」「このままだったら行き遅れるよ」ってうるさいのなんの!」 「確かにあの部署はそこの所にうるさそうだ」 「本当に鬱陶しいんだから。私はマキマキに貢ぐために一生独身極めるって決めてんだっつの! って感じだったから、あんたに恋人がいるって聞いて安心したわ。これであんたと付き合えだのなんだの言われなくて済むようになる」  早瀬はガッツポーズをすると瞬時に何時もの冷静な顔に戻った。 「で? その同棲したての恋人と何があったの」 「実は、その子のことで気になることがあるんだ」 「「子」って呼ぶって事は年下? 大丈夫な年齢?」 「今年新卒の歳だ」 「それならまぁ……気になることって、例えばどんな?」 「お風呂が長いんだ」  私の言葉に彼女ははじめてその言葉を口にするように「おふろ」と口にした。 「それが……どうしたの」 「浴室で何をしているのかわからなくて不安なんだ」 「風呂に……入っているのでは……?」 「普通に体を洗い、湯船に浸かるだけなのに一時間近く時間がかかることなどあり得るのだろうか」 「長風呂する人ならそのぐらい入ってること普通にあるって。湯に浸かってボーッと考え事したり、防水のタブレットやら色々持ち込んで動画見たり、読書したり」 「そういうものなのだろうか……」 「たかが風呂くらいで悩みすぎなのよ……」  早瀬は一気に興味を無くしたらしく「じゃ、私仕事に戻るわ」と言って立ち上がると、椅子を元の位置に戻し部屋から出て行ってしまった。それに併せて耳をそばだてていた同僚や上司も仕事に戻ったのか先ほどは小さくなっていたキーボードを叩く音量が大きくなった。  彼女がいう通り、少々悩みすぎなのかもしれない。そんな気がした私は、依然胸に残る靄を抱えたまま仕事を再開した。  その後、何とかその日の仕事を終え、タイムカードを機械に挿入し終わったのは定時の三十分後だった。今日は運よく定時直前に「頼みたい仕事が」「明日の昼までに提出してほしいのだけれど」といった類の仕事を任されることもなかった。冬に行った健康診断の結果が返ってきたためそれだけデータベースにまとめて今日の業務は終了である。  後はこのオフィスから会社を出るまで誰にも捕まらず「相談したいことが」等と言われなければ今日は真っ直ぐ渚くんのもとへ帰ることができる。まあ早瀬曰く「見た目が鬼畜ドエス上司キャラ」である私の場合、「怖い」の一言で敬遠されてしまうため相談目的で話しかけられることはない。  まったくもって気軽に相談できるような人間ではない私が、なぜ人事部に配属されたのかまったくの謎だ。  いけない。別件の謎がまた増えてしまった。頭がパンクしそうである。 「……疲れたな」  息を吐くようにそんな言葉が出る。春とはいえまだ冷える夕暮れ時。こんな時は無性に渚くんに会いたくなる。悩みの種に会いたくなるなど笑える話だ。けれど、疲れた体には渚くんの笑顔と「おかえりなさい」「お疲れさま」がよく効く。彼に出会う前には得られず知り得もしなかった多幸感。そして、家に帰ると愛する人が待ってくれているという何にも代え難い安心感。私は彼との関わりの中でそれを知ってしまったのだ。  たった数週間。それでも私の体には彼の存在がもう骨の髄にまで染みついてしまった。もう、手放すことが苦痛に感じてしまうほどに。 「訊いて、みるか」  風呂でのことを。何もないならそれでいい。ただ、愛する彼に対してこのまま疑念を抱きたくはない。同棲初日に心に誓ったではないか。渚くんが自分の元を去りたいと言うまで、その日が来るまで彼とともに暮らそうと。その為に、彼を信頼し何より彼に信頼されるような人間になろうと。  私は拳を握りしめる。そして、スーツのポケットからスマートフォンを取り出すとメッセージアプリで彼宛に今から帰る旨を連絡し会社から出た。 「ただいま」  途中、渚くんの好物をコンビニで買って無事帰宅した私は、靴を脱ぎながらそう口にする。まだ若干口に馴染んでいないその言葉にむず痒くなって口をもごつかせる私の元へ、リビングのほうからいつものように渚くんが駆け寄って――来なかった。 「……」  料理の最中なのだろう。そう思ってリビングの扉を開けるがリビングにもキッチンにも誰もいなかった。ただ、電気がつけられているし、渚くんが愛用しているブルーとピンクの迷彩柄のボディバッグと今日朝着ていったジャケットがハンガーラックにかかっている。つまり、渚くんは帰宅しているはずなのだ。  しかし、寝室を覗いてみてもそこに彼の姿はない。ということは―― 「お風呂、か?」  口に出すと同時に心が妙にざわついた。  まさに悩みの種のさらに悩みの種となっている場所である。その場所に、今彼はいる。紛れもない事実を何度も反芻している私の頭にある考えが浮かんできた。  ――覗いてしまえば良いのではないか。  百聞は一見にしかずという。引っ越し初日。あの荷物をあんなに必死に隠したがる彼だ。もしかしたら風呂上がりに質問を投げかけたところでその球は返ってこず、ポケットか何処かに隠されてしまうかもしれない。  ならば、と私は机の上に荷物を置くと浴室へ繋がる洗面所へ急いだ。  ゆっくりと音を立てないように洗面所の扉を開ける。すると案の定浴室の灯りがついていた。洗濯機の前においてある籠には今朝渚くんが着ていた服が入っている。そして、開かずの棚がわずかに開いていた。  私は静かに棚を開けると中を覗く。ボトルが一本減っていた。恐らく中に持ち込んでいるのだろう。私は中のボトルを一本手に取ると、それを観察してみた。お洒落なパッケージには何やら英語が書かれている。ばれないよう電気をつけていない洗面台ではその小さな文字を読み取ることは困難だった。  中にはどろっとした液体が入っている。ボトルの蓋を開けると何やら甘い香りがした。手にそれを垂らす。垂れた液体は手にぬるぬると纏わり付きながら僅かに粟立った。  それに一瞬嫌な予感が――考えていたとある可能性が頭に浮かんできて私は僅かに額に汗が滲むのを感じる。すると、浴室のほうから渚くんの声が聞こえた。 「ふぅ……んっ……」  普段聞くことのない熱っぽくこもった声。僅かに聞こえる水音。そして、謎の粘り気のある液体。  私の可能性で留めていた考えはほぼ確信に変わりつつあった。 「あっ……きもちぃ……」  渚くんは、お風呂で一人「致している」のではないのだろうか――それが私が導き出した答えだった。  突然だが、私は所謂ED――勃起不全である。  自分がそうであると自覚をしたのは大学時代。当時付き合っていた彼女と始めて過ごした夜で大失敗を冒してからだった。  初めて行ったホテル。彼女は私にとって初めての恋人だったということもあり、酷く緊張していたのだと思う。全くもって熱を持たず、様子を変えない私の下腹部を指さしながら「なにそれ」と笑う彼女の声とともに私は体も心も萎縮していった。  結局、私を残しホテルを去った彼女とその後連絡がつくことはなくなり自然消滅。私はそれ以降、それがトラウマとなり女性と付き合うことは愚か、マスタベーションにすら恐怖を覚えるようになっていった。  大学卒業間際、病院を受診して出た診断結果は「心因性ED」。カウンセリングと投薬を進められたが就職をしてからは中々病院にも通えず、治療も滞ってしまっていた。  男性として不能。そんなレッテルを貼られてしばらく経ち、三十歳手前になった私が出会ったのが渚くんだった。  彼に好意を告げられたとき、私は真っ先に自分の体について彼に伝えた。自分は性行為に対して酷くコンプレックスを抱いていると。そのストレスからか自分は「不能」であるのだと。今は、人に対して性欲すら感じることが出来ないのだ、と。恥ずかしながら涙混じりにそう伝えた私に彼が返したのは「だから?」という無邪気な言葉だった。 「オレは、香坂さんと――昭彦さんとセックスしたいから付き合いたいんじゃない。一緒にいたいから付き合いたいんだよ。オレは昭彦さん大好きだからさ、側にいるだけで幸せだし、ハグだけでも、何なら手ぇ繋ぐだけでも幸せなんよ。だから、」  「自分と付き合って欲しい」と彼は私にそう言ってくれた。  その時は嬉しさでいっぱいになっていたが、彼と一緒にいるときが長くなればなるほどよくわかる。彼は私とは違う。同棲前、お家デートをしたときに深夜起きた彼が少し長めのトイレから帰ってきたときに妙に顔を赤らめていたことがあった。それに嫌悪感は一切なかったが私は酷く申し訳なさを感じたのだ。  渚くんは人並みに、一般男性並みに性欲がある。だが優しい彼は、それを私に見せないように常に振る舞ってくれた。  私は彼を無理させている。  もしかしたら同棲を始め寝食を共にしている今、彼は一人になれる入浴中に性を発散しているのかもしれない。それがもしも湯船の中だというのならば、例の行為も致してしまった湯を流し新しい湯船に張り変えていると考えれば自然な行為だ。  もしも、そうならば私は渚くんに謝らねばならない。私のせいで無理をさせて済まない。君の「こうい」に応えられなくて、寂しい思いをさせて済まない。  そう、謝らなければならないのだ。  私は手を震わせながら浴室の扉を開くため取っ手に手をかける。そして、勢いよく扉を開けた。 「渚くん!」 「おわぁ!?」  渚くんの悲鳴を聞くと同時に目の前が真っ白になった。すぐにそれがメガネのレンズの曇りであると理解する。メガネを外そう。そう思った私に渚くんは慌てたように声を張り上げた。水がバシャバシャと鳴る音が聞こえる。 「待って、香坂さん! メガネ外さないで!」 「大丈夫、私はどんな渚くんの姿も受け止める! それにこれは私の責任だ!」 「何言ってんのかわかんないんだけど! あっ、」  メガネを外して渚くんのほうを向く。そこにいた渚くんは顔を真っ赤にして――白くてもこもことした泡でいっぱいになった浴槽に体を沈めていた。 「え、」  浴室に広がるのは生臭い匂いではなくミルクキャンディのような甘い香り。浴室から浮き上がったのか辺りにはシャボン玉がふわふわと漂っていた。  両手で頬を覆いながら俯く渚くんの姿は妖精か何かのようで、浴室中を渦巻く熱い空気も相まってなんだか妙にときめいてしまう。ぼんやりと彼を眺めていた私はやっとの思いで声を出した。 「渚くん……これは……」 「……泡風呂、です」 「それは……わかるんだが、その、もしかしてだけれど、今までにもこんな風に泡風呂をしたことがあったのかい?」  完全に叱られた子犬状態で頷く渚くんの背後に、昼間の早瀬の姿がちらついた。まさか、つまり、そういうことなのか。 「渚くん、君は、もしかして……」 「今まで黙っててごめんなさい! オレ、オレ……」  渚くんは肩を震わせながら思い切り叫んだ。 「お風呂が大好きなんです!!」  「大好きなんです」という言葉が浴室に反響する。ここで効果音を鳴らすならば「カポーン」だろうか。そんなことを思いながら、私は昼間の早瀬と全く同じ口調で「おふろ」と呟いた。風呂の湯が熱いからとは恐らく絶対に違うであろう理由で渚くんは赤くなっていく。そして、「笑わないでよ」と念押ししてから小さく口を開いた。 「オレ、大学の頃からずっとアパレルで働いてるじゃん? だからずっと立ち仕事で……いっつも足とかパンパンになるのよ。そんなオレにさ、先輩社員が癒やされるからって入浴剤くれて。最初は全然興味なかったんだけど……入浴剤とか、なんか、可愛いデザインの多くて女子っぽいしさ、」 「君の働くブランドはジェンダーレスブランドじゃなかったっけ」 「それはそーなんだけど! それはそれ、これはこれで……あんまり気乗りはしなかったんだけど、ネットで調べたら匂いも良いらしくて。湯船に浸かりながらゆっくりとかあんましたことなかったけど、湯に浸かってのマッサージとか、いいんじゃねっておもってしてみたら、その……思いの外……」 「良かったんだね」  渚くんはまた頷く。やはり、楽しそうに話す渚くんは可愛らしい。恋しているようでなんだか嫉妬してしまうけれど。 「そっから、バスグッズにはまっちゃったんだよ。石けんとかボディソープとか、入浴剤とかバスソルトとか、バスタオルとかボディタオルとかまで集め始めて……入浴時間も気が付けば十五分が三十分になり、一時間になって……お風呂には行ってぼーっとしたり、体目一杯伸ばしたり、マッサージしたりするの凄く気持ちいいんだ……今日も、新作が滅茶苦茶届いてそれ運んだり、品出ししたり、ディスプレイ考えたりで滅茶苦茶動いて汗かいたから、帰って直ぐにお風呂入ってたんだ……本当は、同棲初日の日に言おうと思ってたんだけど、でも、なんか香坂さんにお風呂好きって言い出せなくて……何か美意識高めとか女っぽいとか思われたくなかったから。それで、今まで黙って隠してたの。ごめんなさい」 「本当に、お風呂に入っているだけだったんだね」 「へ? こーさかさんは、オレが風呂で何してると思ってたの?」 「そりゃあ……「ナニ」してるのかと……」  しばらくの沈黙が訪れる。そして、沈黙の後に浴室に渚くんの笑い声が響いた。それに併せて泡も舞い上がる。ふわりと漂って来た泡が鼻の頭に舞い降りて私は堪らずくしゃみをした。 「だいじょーぶ! 確かに、こーさかさんのこと気にはしてるけど、風呂で抜くまで我慢してるとかそんなことないし、第一するならトイレでするから! てか、もしかして、こーさかさん、それで悩んでたの?」 「……悩んでいたこと、ばれていたのか」 「当たり前っしょ。こーさかさん、すっげぇわかりやすいんだから。ま、オレがこーさかさんの恋人だから、ってのもあると思うけど」  得意げに渚くんが笑う。私は安心しきって息を吐くと、先ほどボトルの中身を垂らした左手を見た。トロトロとしたそれはローションなどではなくボディソープだったようで私の手の中で白く泡立っていた。  早瀬の言うとおり、悩みすぎだったようだ。そんなことを考えていると浴室にまた渚くんの笑い声が聞こえた。とても幸せそうな声だ。 「どうしたんだい?」 「きーて、こーさかさん。オレ、良いこと思いついちゃった」 「いいこと?」 「うん。あのね、」  シャボン玉の漂う浴室にいるからだろうか。なんだか私達二人はお互い子どもになって、秘密基地の中にでもいるような気分になって顔を見合わせる。そして彼は私にこう言った。 「オレとお風呂に入ってください」  その言葉はまるでプロポーズを受けたように心に刺さってきた。だって、入浴は渚くんにとっての楽しみで、唯一一人に慣れる場所なのだ。そこに私が介入すると、私は彼の楽しみを奪ってしまうことになるのではないだろうか。 「オレはね、好きなこととか楽しいこととかを大好きな人に共有するのが好きなの。だから、こーさかさんがお風呂嫌いなら別に一緒に入らなくてもオッケーだよ。でも、こーさかさん、最近お疲れ気味じゃん。人事って多分この時期忙しいんでしょ? 新卒の面倒見ないとだし、来年の新卒の採用も始まっちゃってるし。それ以外にも日々の業務はあるし」 「……」 「その疲れを、オレが一緒に、少しでも癒やせたらなって……思ったんだけど」  彼は見る見るうちに困った顔になる。私はその彼の顔を見ながら浴室を出て扉を閉めた。  そしてそのまま、服を脱ぎ、再び浴室に戻る。 「実は、泡風呂は初めてなんだ」  一瞬陰っていた渚くんの表情がぱあっと明るくなる。 「滅茶苦茶楽しいですよ! 泡見てるだけで癒やされるし! あ、見て見て! シャボン玉!」  彼は指で輪っかを作りながらシャボン玉を作る。まるで日が当たった渚のような君の笑顔を見るだけで、私は癒やされるんだよ。恥ずかしさが勝って、言葉には出せなかったけれど私は彼に微笑み、体を洗うと彼と一緒に泡風呂を堪能した。  テレビでしか見たことのなかった泡まみれの風呂は思いの外心地よかった。もこもことした泡に包まれるという子どもの頃に描いた憧れを達成した満足感。そして何より子どもの頃に戻ったような懐かしさでいっぱいになり、泡がなくなるまで浴槽ではしゃぎ明かし、二人で風呂を出て夕食を作り始めた頃にはもう九時前になっていた。  けれど、時間を無駄にした感覚はなく寧ろ時間を堪能したという満足感、そしてこの歳にして始めてお風呂の楽しさに気が付く。何より、渚くんの新たな一面を知られた喜びが大きく、それだけでも私は早くも翌日の彼との入浴が楽しみになっていた。  そして次の日。健康診断の結果を経理部に届けに行くと早瀬に「解決したようね」と呆れきった顔で言われる。それに「君の言ったとおりだったよ」と返すと彼女は何故か不服そうに「良かったじゃない」と言った。「顔が緩みすぎよ」という忠告を添えて。  三十二歳。春。平凡で平坦だった私には楽しみが出来た。  家で待つ恋人。彼の「おかえりなさい」と「お疲れ様」の声。そして、その次に待つ言葉。 「お風呂にしますか?」  満面の笑みでバスタオルを抱きかかえる彼に、私は僅かに目を細め頷いた。
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