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ああ、今夜もそろそろ時間だ。
夜9時。夫が時計を見上げ、ソファーから無言で立ち上がる。
私はキッチンにそっと身を滑り込ませて、扉を勢いよく閉めると、キッチンマットの上に崩れ落ちるように座り込み、掌で両耳を塞いだ。そして息を殺してうずくまる。
やがて、扉の向こうから、夫がリビングに置いてあるPCを起動させる気配、次いで、女のひとの声が聞こえてくる。
「彼女」だ。
長引くパンデミックにより、そう簡単に人と人が顔を合わせられなくなってしまったこのご時世、彼は電話の代わりに、PCのSkype機能で「彼女」と暫しの「デート」を楽しむのが、ここ最近の日課なのだ。
「ねぇ、今日はどうしてた?」
「今日はオンラインの営業会議があって、来期の販促活動案についてプレゼンしたよ。PC越しのプレゼン、やりにくくて苦手だけどな」
「そう。私は久々に外に買い物に行ったわ。こう籠もってると新鮮な空気が気持ちいいわね。マンションの7階ともなると、窓を開けていても、息苦しくてかなわないわ」
……そんな、毎夜20分ほどのたわいの無い会話。
聞こえないように、会話を聞かないように、震える手で強く力を込めて耳を塞いでも、賃貸マンションの薄いドアはいとも容易く、その言葉の全てを私に届けてしまう。
そして、最後には、かならず「愛してるよ」と囁きあって。互いの愛を確かめ合って。
そして毎夜の夫と彼女の「デート」は終わる。
無限の如く感じるこの時間は、まるで、地獄のようだ。
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