足跡

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足跡

 夜、残業帰りに雪道を歩いていると妙な足跡を見つけた。  その足跡は一見(いっけん)〈一人の人間〉が歩いた形跡のように見える。左右交互に一定間隔で踏みつけられているのだから。  しかし本当に〈一人の人間〉だろうか。  その奇妙な足跡に、僕は気温の低さとは別の寒気を感じた。  その足跡はバラバラであった。  バラバラ、というのは靴の種類が一歩一歩異なるのだ。  種類だけではない。サイズも違う。  大柄の男性サイズの右足が付いているかと思えば、次に踏み出された左足の跡は未就学児くらいの子供の足跡なのだ。その次はハイヒールらしき女性の右足の跡……といった具合。  その足跡は先へ先へと続いていた。  いったいどのように付けたのか、どのような者が付けたのか。いや、そもそもこれは人間だろうか。  僕か抱いていたのは恐怖心よりも好奇心の方だったらしい。恐怖の思考を巡らす前に、身体の方が先に動いていた。無意識だったのか。  僕はその足跡を辿っていた。  足跡を辿っていくと、ついに足跡が途切れた。  そう思った瞬間。 「いらっしゃいませ」  すぐ近くから男の声がした。  どきりとして顔を上げると、目の前には木彫りのベンチに腰掛ける一人の男の姿があった。  大正時代を思わせるレトロな黒いコートに、黒いハット帽を被っている。(かたわ)らには黒いトランクを置いており、紳士のような佇まいで腰掛けていた。  男は口元に笑みを浮かべている。目元は帽子でよく見えない。だが、じっと僕を見つめている。そのような気配がした。  その視線から逸らすように辺りを見渡すと、そこは家の近くの公園であった。足跡を追うのに夢中だったためか、全く気がつかなかった。  それにしても、もう少し長い時間歩いていたと思ったが、そうでもなかったらしい。雪道で足取りが悪く、疲れが勝ってそのように感じたのかもしれない。 「お客様、どうなされましたか」  コートの男が言った。 「あの……お客様というのは、僕のことでしょうか」 「はい。もちろん」  客、ということはこの男は少なくとも何か商売をしているのだろうか。  こんな夜に、こんな場所で。  何か怪しいものを売りつけられるのかもしれない。もしかするとヤクの密売とか、そういったものの可能性もある。  しかしあの奇妙な足跡をどのように付けたのかも気になっている。  僕が何も答えないでいると、男は、 「ああ、なるほど。知らないお客様でしたか」と言った。  男は立ち上がると、深くお辞儀をした。 「私は〈足跡売り〉と申します」 「あ、足跡?」 「はい」 「足跡を売っているんですか?」 「ええ。そうですよ」  あまりにも普通の返事だった。  聞き間違いか、こちらが可笑しいのではないかという感覚になってくる。  それとも『足跡』とは何かの隠語(いんご)なのだろうか。  思わず自分のすぐ後ろにある、付けてきた雪道の足跡をちらりと見た。  まさかこの足跡のことではないだろう。  もし怪しい薬の隠語だとしたら……これは記事のネタになるのでは。  冷静を装いながら、僕は話を続けた。 「……足跡、を買ってどうするのですか?」 「〈付け直す〉、ということが可能です。ご自分のでも、他の方のでも」 「付け直す?」  言っている意味が全く分からない。  それが顔や態度に出ていたのか〈足跡売り〉と名乗る男は丁寧に説明を始めた。 「〈足跡〉というのは、お客様一人一人が歩んできた形跡、残してきたもの、つまり、目に見える〈結果〉なのですよ」 「結果?」 「誰にでも、生きた証として、歩んできた道がある……その後ろに残るのは、あなたの〈結果〉。  それが〈足跡〉。  しかし、残した〈足跡〉が気に入らない。もし別の〈足跡〉を残せていたら。そもそも〈足跡〉を残せていない……。  ありませんか? 『あの時あの結果を残せていたら』『あの時あの選択をしていれば』。そのような後悔や無念が」 「……まあ、ありますが……」 「私はそのような方のために、別の〈足跡〉を売っているのです。  そして、それを〈付け直す〉。  私はそのお手伝いをさせていただいているのですよ」 「…………」  ヤクの密売などではなく、怪しい宗教の可能性も出てきた。  しかし──。  僕は今度は自分のではなく、これまで辿ってきた足跡、つまりこの男が付けたであろう奇妙な足跡を見た。  もしかするとこの男は人間ではないのかも……などといったファンタジーやメルヘンなことも考えてしまう。 「その……つまり過去をやり直せるということですか?」 「まぁ、そうとも言えますが、あくまで〈跡〉を付け直すだけです。その後どうなるかまでは……」 「なるほど……」 「それで、どうなされますか?」 「うーん……」  なるほどとは言ったものの、分かるような、分からないような。不思議なことを並べられ、どのように処理すればいいか分からない。  僕が渋っていると、男は言った。 「そうですね……では『お試し』をしてみませんか?」 「お試し?」 「ええ。私の言っていることが、信じられないのでしょう。それでしたら今回はお試しで、お代はいただきません。もし気に入っていただけたら、次は買っていただく。いかがでしょうか」  お試しか。実際、信じる信じない以前にどうなるのかが抽象的でよく分かっていない。何も払わなくていいのなら。 「それなら、その『お試し』で……」 「承知しました。それではどのような〈足跡〉になさいますか?」 〈足跡〉とは〈結果〉のことだと言っていた。やり直したく、すぐに分かりそうな結果。それだったら──。 「……この間の『ジャーナリスト賞』……僕は、新聞社の者なんですが、同期の記事が受賞して、僕は何も……その〈結果〉を変えたいのですが」 「分かりました」  男の口元はにこりと笑みを作った。(かたわ)らに置いていたトランクを地面に置く。男がトランクを開けると、そこにはぎっしりと雪が敷き詰められていた。 「お客様のお名前は?」 「……氷雨(ひさめ)正吾(しょうご)です」  少し迷ったが、本名を名乗った。 「氷雨正吾様、ですね」  男が僕の名前を呟く。すると、トランク内の雪に、一歩分の足跡が付いた。  まさかと思っていた可能性が、濃厚になっていく。  この男が人間ではない可能性。  そんなこと、あるはずない。しかし目の前で、その光景を目の当たりにしてしまった。  透明人間でもいたかのように、トランク内の雪だけが足跡状に沈んだのだ。  誰も踏んでいないのに、雪だけが、ひとりでに。 「これが、その時の氷雨様の〈足跡〉です」  僕が唖然(あぜん)としている中、男は言った。 「それでは、残したい〈足跡〉を思い浮かべながら、このトランク内の〈足跡〉を踏んで下さい」  きっと手品か何かに違いない。  できるものならやってみろという気持ちで、僕はトランク内の足跡を、上書きするように踏みつけた。 『ジャーナリスト賞を取った』という〈結果〉を思い浮かべながら。  足跡を踏みしめ、恐る恐る足を上げる。足跡は重なって、別の形となっていた。  何か変わったのだろうか。今のところ何の変化も感じられない。  僕の考えを読み取ったかのように男が言った。 「明日になれば分かります。お気に召しましたら、またここにお越しください。しばらくの間はここにおりますので……」  そう言って、男はその場を去って行った。  男の後ろには、あの奇妙な足跡が付いていた。  あの男は本当に、人間ではないのかもしれない。  急に不安が押し寄せてきた。僕がやったことは、大丈夫なことなのだろうか。  そうだ。この後、作家の佐藤幸一郎先生と、電話で打ち合わせをする予定だった。  変り者だが、きっとこういった不可思議な話には興味を示してくれるはずだ。  相談も兼ねて、この一連の出来事を話してみるとしよう。
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