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足跡まみれの本なんて見たことありますか?
本を借りたいと思ってせっかく図書館に来たのに、タッチの差でお目当ての本を他の人が借りて行ってしまった。他に借りたい本があったわけでもないから予約だけ入れて帰れば良いのに、何か借りないと損な気がして、図書館をぶらぶらしていたときのこと。
ふと目に入った本のタイトルは、悪の華。作者のボードレールは全然知らない人だけれど、題名が気に入った。美しい女が男を誘惑して悪の道に堕とす妖艶なストーリーが思い浮かぶ。妖艶なね。
「悪の華」を棚から取って、手近な椅子に腰掛ける。表紙をめくり、目次は飛ばし、本文に入って「悪の華」が小説ではなく詩集であることを知った。マジか。
いや、その本の異常さに比べれば、詩か小説かなんてどうでもいいことだった。詩を織りなす文字に重なるように、半透明の足跡がついていたのだ。本の上を小人が歩いたみたいに、ページ全体が半透明の足跡に覆われ汚れている。
ページをめくっても、可愛い足跡で満たされていた。次のページも、その次も。
前に借りた人がいたずらをしたのだろうか。それにしては常軌を逸している。全部のページに足跡のスタンプをつけるなんて、犯人はよほど「悪の華」に執着があるらしい。
パラパラめくっているうちに、足跡が重なるように沢山ついている箇所と、走ったように間隔が開いている箇所があることに気づいた。ふむふむ。この本にいたずらをしたのは作者であるボードレール本人ね! 詩を書いた後に恥ずかしくなって、全国の図書館を巡りながら自分の作品を足跡スタンプで消しているんだ。特に恥ずかしいところは念入りに。
「あー……ごめんなさい」
驚いた。控えめな声が聞こえたと同時に耳の後ろの髪の毛が揺れたから。ボードレールに気を取られていて気づかなかった。同い年くらいの男性が隣に座っている。いつから。
「その本、足跡がついていて読みにくいですよね」
「あなたも読んだんですか? 信じられないいたずらですよね」
「ごめんなさい」
「私が思うに犯人はボードレールです。自作のポエムが後になってから恥ずかしくなるのはよくあることですよ」
「本当に申し訳ないことをしました」
「黒歴史ってやつですよね。みんな経験したことが……ん? ごめんなさいってどういうことですか?」
「僕がつけたんです、足跡」
「待って、犯人はボードレールじゃないの?」
「僕です」
「えっ」
「足跡をつけたのは僕です」
「何で!」
離れたところで新聞を広げているおじさんがチラリとこちらを見た。足跡の犯人だと自首した男は構わず続ける。
「わざとではないんです。ただ足跡がついてしまう体質で……」
「あしあとがついてしまうたいしつ?」
「昔は普通だったんです。でも事故に遭ってから、目で追いかけた文字の上に足跡がつくようになってしまいました」
「いやいやご冗談を」
「疑わしいでしょう?」
彼は私が開いたままにしていた「悪の華」に視線を落とす。すると、小さな足跡がとととん、とととん、と生まれる。透明人間が文字の上を歩いているかのように。
「手品ではなく?」
「タネも仕掛けもありません」
「どんな本にも足跡がつくんですか?」
「そうですね。文庫本にも教科書にも辞書にも、僕の視線の足跡がついてしまいます」
「すごい! 超能力ですね!」
「でも図書館の本でやってはいけないことです。本当に申し訳ないことをしてしまいました。買った本しか読まないと決めているのですが、阿部版の『悪の華』はどうしても手に入らなくて。図書館に置いてあると知って、つい出来心で……」
「阿部版?」
「翻訳者のことです」
彼は困ったように少し笑った。私は、いえいえ、と顔の前で手を振ってみせた。
「視線が本の上を歩くなんて、初めて聞きました」
「本当に本の中を歩く感覚なんですよ。今までで一番面白かったのは『雪国』です。ザクッザクッと音を立てて、足が沈んでいくあの感覚は初めてです」
「本の中に入れるんですか!」
「梶井基次郎の『桜の樹の下には』も幻のような世界でした。薄く色づいた花びらが吹雪のように舞っていましたからね。これだけたくさん舞っているのだから手を出せば花びらの1つや2つ取れるだろうと思いましたが、磁石のS極とN極のように反発して掴めませんでした」
「本の中に入る感覚って、そんなにリアルなものなんですか? いいな、ちょっと体験してみたいかも」
「僕は梶井の世界に住みたいです、死体が無ければですが」
「死体!?」
「ネタバレ……ではないと思いますが、良かったら今度読んでみてください」
でも、と言って彼は少し俯いた。
「僕は足跡をどうにかしたいです。本の中に入れる能力は悪くないですが、自由に本を借りられない方がつらいんです。図書館の全部の本を読んでみたいくらいなのに」
なるほど。確かにこの世の全部の本を買うわけにはいかないし、本が好きな彼にとっては深刻な悩みだ。でもそんなの簡単に解決できる。彼は気づいていないのかな。簡単なんだよ。
「図書館の本を読む方法なら、あると思いますよ」
「本当ですか! 足跡をつけない方法があるんですか?」
離れたところで新聞を広げているおじさんが再び私たちをチラリと見る。今度ははっきりと眉間にシワを寄せて。
「朗読すれば良いのでは?」
「朗読?」
「はい、私が朗読してあなたが聴けば、図書館の本も読めます。『悪の華』の他に、読みたい本は無いですか? 今すぐ借りて、隣のカフェで私が朗読しますよ」
交渉成立。「悪の華」を閉じて立ち上がると、彼が隣の席に座っているのではなく車椅子に乗っていることに初めて気づいた。両膝から下が無いことにも。
「ふぅ、一旦休憩」
「とても面白かったです。朗読が上手ですね。本の中を歩くのとは違った感覚で、朗読を聴くのも面白いです」
図書館に併設された全国チェーンの無個性なカフェで、すっかり冷たくなったコーヒーを一口飲む。
朗読は疲れる。でも面白い。彼が選ぶのは読書歴の浅い私が知らない本で、新しい世界を見せてくれる。エミール・ゾラの「パリの胃袋」なんて、自分では絶対に選ばない。知らない人の知らない本。
彼にとっては、朗読より自分の目で文字を読んだ方が面白いのだと思う。本の中の世界では、彼は自分の脚で歩き回ることができるのだから。願わくば、パリの石畳にもとととん、とととん、足跡をつけて欲しい。
その意味では、私が朗読することで彼の自由を奪っているような気もする。でも図書館の本を読みたいなら誰かが朗読してあげないと。
もっと朗読が上手くなったら、彼を本の世界に誘うことができるのかな。彼の目になり脚になってみたい。真っ白な雪の世界、満開の桜の下。夏の海の本も秋の紅葉の本もきっとある。私は「パリの胃袋」に栞を挟んで閉じた。
「続きは今度にしましょう。連絡先をーー」
「待って、今のは何?」
彼は身を乗り出した。
「突然どうしたんですか。何って何がですか?」
「本に挟んだ薄いもののことです。それは何ですか?」
「栞のこと? 変な質問ですね」
「しおりって何ですか?」
「いやいや冗談でしょう? 本をどこまで読んだか忘れても困らないように、次に読むページに挟んでおく、あの栞のことですが」
彼は背もたれに体を預けて言った。
「へぇ……足跡がつかないと不便なんですね」
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