きみはあくまで

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煙が揺蕩う様さえ見えなくなった視界に、ついさっきまで食らいつくように見つめていた文字が映った。仕事なんてもうずっと前に終わっていた。この連絡が来るまで、行くつもりさえなかった。そのくせに、たった一言に突き動かされている。 「前田さん、この書類……」 「悪い、ちょっと先帰らせてもらうわ」 「えっ、どうしたんですか」 「姪の誕生日なんだわ」 「ご兄弟、結婚されてたんですね」 「まあ、そうですね」 荷物をまとめながら、後輩の言葉に声を返す。姪の伊央に買ったプレゼントが入っている紙袋を引っ掴んで、俺が残業するからと言う理由だけのために残業を申し出た憐れな女の顔を見た。 「お兄さんですか?」 「いや? 姉貴」 小さく笑って、事実を述べてから、それ以上を告げる必要性も感じずオフィスから出た。 いつも通りに電車に乗り込んで、二回乗り換えをすれば伊央の家はすぐそこだ。閑静な住宅街という表現がぴったりの一等地を購入できる財力はさすがと言えるだろう。まさに、姉貴以外の女には脇目も振らず、ひたすらに勉学に打ち込んできたような男だった。 もっと自堕落で、くそみたいな男なら、俺は遠慮なく道を踏み外していた。そうならなかったのは、間違いなく、姉貴の選んだ男がしっかりした男だったお陰だ。くそまじめで、馬鹿みたいに優しい男。それが瀬野信二だった。
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