きみはあくまで

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表札に書かれている“瀬野”という苗字に失笑しそうになる。その表札は、わざわざプロに頼んで作ってもらったものらしい。 もう何年も別人になりたいと思っていた女が別の姓を名乗るようになった。 奇しくも最も望んでいない形だった。 俺と同じく前田だった女は、いつのまに、瀬野を名乗っている。 インターフォンに人差し指を押し付けて、当たり前に鳴る音を聞いた。出てきただらしない男の顔が、驚きに染まる。「来てくれたんだね」と嬉しそうに笑って、俺の手に握られている鞄を受け取ろうと手を差し出してきた。 完璧に優しい男の気遣いに苦笑しつつ「あんな可愛い伝言で誘われたら、来るしかないじゃないですか」と呟いた。半分本当でほとんど嘘だった。 「ひーちゃん、おかーり!」 「伊央」 家に上がった瞬間にぶつかってくる何かを瞬時に受け止めて、両脇の下に手を入れた。たいした力を入れる必要もなく浮上する体は羽が付いているようだ。 俺を笑う表情はこの世で一番天使に近いものに見える。それも、身内の贔屓目なのだろうか。 きゃあきゃあと笑う伊央をフローリングの床におろして、天使の輪が浮かぶ髪を緩く撫でた。 「ただいま」 俺からこの言葉を引き出せる女は、この世でたった一人のはずだった。小さく笑って、握られる手を緩く握り返したら、目の前にたった一人だったはずの人間が立っていた。
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