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だって、私は逃げない。ゆっくりと、私の反応を試すように下唇を撫でた彼は、私が抵抗しないのを見て、柔らかに口付けた。
それがキスだと思った時には離れていた。
「煙の匂い」
「味気ない?」
風に浮かべるように軽く笑った彼は、私の返事を待つことなく煙草を踏みつけて、地面に擦った。それを見て、私も同じようにタバコを指先から離した。
「行く?」
私が落とした煙草を、彼は何の躊躇いもなく踏みつけた。ジリ、とアスファルトと砂が擦れる音がして、完全に火が消える。その言葉の主語を、私は永遠に問わないだろう。
「いいよ」
私が呟くと、彼は1秒だけ、眉を苦しそうに寄せた。そのあとすぐに忘れたような顔をして、私の指先を撫でるように奪った。
きっと、その指先は、彼と同じようにタバコの匂いがしている。彼の好きなPeaceの匂い。包まれて死ねるなら本望だ。
きっと癖になる。
彼は一生で一つ、もうやらないことをやろうと言った。ノーマルとアブノーマルはいつだって二律背反だ。一歩足を踏み入れさえすれば、誰だって普通ではなくなる。
手を繋いで街を歩く。
同じように手を繋ぐ人間を見て、きっと付き合っているのだろうと何となく思った。顔を寄せ合って幸せそうに笑っている。この世の全てに祝福されているような顔で。
何て能天気なのだろう。
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