7人が本棚に入れています
本棚に追加
昨日実家から電話がかかってきた。夜中に、珍しく、高校生になったばかりの妹からで、電話口で彼女は泣いていた。
『お姉、スィーニーが死んじゃった』
それは実家に残してきた飼い猫が死んだという連絡だった。
死んだ猫は結構な老猫で、帰るたびに弱っているのを見ていたから、残された時間の短いことは、それとなく予感していた。
だから、その連絡に改めて驚くようなことはない。だが、落胆する気持ちは思った以上で、そのことにはつい感情を持て余してしまう。
スィーニーはどこにでもいる雑種の女猫だった。瞳が海の底のように深い蒼をしていたので、ロシア語で蒼を意味するスィーニーと名付けたのは父だったか母だったか。
少し短い毛並みが印象的で、ロシアンブルーじゃないの、と仔猫を見に来た人たちが言ったのを意識したのだろう。安易な発想で名付けられたスィーニーに、悪かったかなと思ったりする。
スィーニーは生まれたばかりのところを拾った。たった一匹、落葉のたまった側溝に落ちて、絶えずニィニィと鳴いていたのを見つけたのだった。
あれは小学校の二年の時だから、もう十五年も前のことだ。電話の向こうでめそめそと泣いている妹は、多分一歳か二歳だったはずで、物心が付くころには当たり前にスィーニーが居たのだから、その悲しみは想像するよりもずっと深いものなのだと思う。
『お姉、スィーニーに会いに来るよね』
妹の声は懇願に近かった。明日仕事のあとに行くね、と返事をして通話をようやく終えた頃には、時計の針は夜中の二時をまわっていた。
電話を切った後もしばらくぼんやりしていた。そうか、スィーニーが死んじゃったか。
実家を出てからそろそろ五年が経つ。帰ろうと思えばすぐに帰れる距離だったが、その間家に帰ったのは片手で数えるほどだ。それでも帰るとスィーニーは擦り寄って来て、膝の上や、寝そべった背中にぴったりくっついて丸くなったものだ。
撫でてやると、寝ているものと思っていたのに、長い尻尾をパタパタとゆっくり動かして甘えだす。もっと撫でてくれの合図だ。
いたづらにその尻尾を掴んだりすると、両目をぱっと開いてあの蒼い瞳でじいっと睨むのが可愛らしくて、彼女が逃げ出すまで何度も繰り返したりした。
記憶の中にはこんなにも鮮明なのに、スィーニーはこの世のどこにももういない。
まるで実感の湧かないことだったが、そう思うとあの猫がつい最近まで生きて過ごしていたのだということにも、さして実感がないことに気付いてしまう。その事実は、いっそう気持ちに冷たいものを運んできたようだ。
ぼんやりと部屋の隅を見つめたまま、どれくらいそうしていただろう。壁にかけた時計に目をやると、あっという間に三十分が経っている。シャワーを浴びるためにのっそりと立ち上がった。
緩慢な心模様のままシャワーを浴びて、髪を乾かしてベッドに入る。だが、なかなか眠りはやってこなかった。
一晩中寝床の中で転々と寝返りを打ってはため息が漏れる。瞼を閉じるとそこにスィーニーの後ろ姿が浮かんだ。ぴんと立てた尻尾を、彼女はゆらゆらゆらゆらといつまでも動かしていた。
翌日は朝から忙しかった。職場につくなり先週納品した仕事へのクレームが入ったとかで、その対処に追われた。
言われるままにあっちのデータ、こっちのシステムと作業を進める。昼食もろくにとれないまま、気が付いたら時計は夜の二十時を示している。スマホのディスプレイには実家からの着信が入っていた。
大きなため息が出る。早く帰りたいところだったが、一般に社会人は実家の猫が死んだからと言って帰りたいとは言わない。それでも上の空に作業をしていると、不意に課長に肩を叩かれた。
「シマ、対応ありがとうな。あとはこっちでやるから上がってくれ」
それは気遣いとも邪魔者扱いともとれる口調だった。それでもありがたさが先立つ。オフィスを見渡すと既に何人かは退社していて、残った人たちも弛緩した雰囲気の中、惰性で仕事を続けている感じだった。
目が合った何人かが退社を促してくれたので、小さくお辞儀をして帰り支度をする。とは言ってもバッグの中にノートや筆箱を仕舞って、背もたれにひっかけたジャケットを掴みあげるだけだ。
オフィスの扉口までツカツカと行って、振り向いてから「お疲れさまでした」とやはり小さな声で言う。残っていた人たちが銘々に「お疲れ」と返事をしてくれたので、もう一度お辞儀をしてから廊下へ出た。
オフィスを出てから、スマホを取り出し自宅の番号をタップした。電話には待ちかねた様子の母が出て、妹がスィーニーの亡骸の側でじっと動かないと教えてくれた。
明日には動物愛護センターに連れて行って火葬にする話だったが、妹は聞き分けてくれるだろうか。実家への道すがらコンビニに寄って、スィーニーが好きだった猫缶を買った。
家までは心なしか早足になった。もうそこにスィーニーは居ないのに、急がなくてはならないような気がした。ゆっくり歩く気にはなれず、実家に辿り着いたときには軽く息が切れていた。インターホンを鳴らすと母が出迎えてくれた。
「もう塞ぎ込んじゃって、どうしたもんかしら」
「まあそっとしておくしかないんじゃない?」
困っている様子の母に何か有用なことを言ってやりたかったが、気の利いたことは何も思い浮かばなかった。家の中は夜中のように静まり返っていて、台所にかけてある時計の針の音が玄関にまで聞こえてくる。いつも点けっぱなしにしているテレビも今日は消しているようで、家の中に動くものの気配はなかった。
「父さんはいないの?」
「昨日から出張なのよ。明日の火葬には間に合うように帰るって電話で言ってたけど……。私も悲しいんだけどね、あんなに落ち込まれちゃうと」
母の言うことは十分に理解ができた。こういうときは最初に泣いたものの勝ちだ。あとの者は宥めたり慰めたりをせねばならない。
明日の火葬も無事にできるかどうか、首輪やおもちゃくらいしか残らないことに、妹が我慢できるのか怪しむばかりだ。
「それで、ミサキはどこ?」
「リビング。ずっとスィーニーを撫でてるの」
そう、と返事をして靴を脱ぎ揃えていると、ふとあることを思い出した。
「……母さん」
「うん?」
「おうちリフォームしたとき、カーポートのコンクリート塗り直したところ、そのままだよね」
「何、どういうこと」
母への問いかけは儀式のようなもので、別段返答を期待したものではなかった。
脱ぎ揃えた靴を履き直し、バッグは母に預けて今入ってきた玄関から外へ出る。確か、塗り直したコンクリートにあれが残っているはずだ。
スマホの灯りを頼りに、外に出て暗いカーポートの端の方を注意して探すと、それはくっきりと残っていた。
「あった……」
「どうしたの、何があったの」
不審そうに後を追ってきた母を振り返り、見つけたそれを指さした。
「あら、これ足あと?」
リフォームをした当時、乾く前のコンクリートの上をスィーニーが歩いたのだ。そのことを誰にも教えずこっそり残していたのである。
「ぜんぜん気付かなかったわ。あんたよく知っていたわね」
「スィーニーがつけるとこ見てたからね」
ふふっと笑うと少し心が軽くなった。
あの日は朝からひとときも蝉の羽音が鳴りやまない暑い日だった。若い左官職人が、汗みずくになりながらコンクリートを塗る様子を、木陰からじっと見つめているスィーニーを見つけた。彼女はエアコンの利いた部屋がお気に入りのはずで、外にいるのが不思議だったので一部始終を見ていた。
(なにしてるんだろう)
それは本当に暑い日で、よその猫はみんな木陰で伸びているのに、スィーニーはあの深い蒼色で、せっせとコテを使う若い左官職人の手元を、それはもうじっくりと見つめていた。
そのうち作業を終えた職人が片付けをしていなくなると、それを待っていたのだろう。スィーニーはすっと起き上がるや、生乾きのコンクリートの際まで忍びやかに歩み寄った。
そして少しだけ鼻を近づけるとスンスンと嗅ぎ回ってから、躊躇いもなく生乾きのコンクリートに右の前足を乗せたのである。
「あ、だめスィーニー!」
部屋の中からでは聞こえるはずもなく、スィーニーは構わず三歩四歩と歩いた。生乾きのコンクリートに、てんてんと足あとがつく。
足あとが七つ八つと増えたところで、彼女はぴたりと止まり自分の歩いたあとを振り向いた。それは、まるで出来栄えを確認するかのような仕草だった。
満足した様子のスィーニーは身軽に脇の芝生に飛び移り、自分の前足をぺろりと舐めて、それから悠々と立ち去ったのである。尻尾をゆらゆらと動かしながら。
その出来事を見て目を瞠ったのを今でも忘れられずにいる。猫のいたずらには確信があることを、まざまざと見せつけられた瞬間だった。
翌日、すっかり固まったそれを確認して、いつまでも笑いがこみ上げてきて仕方なかったことを思い出す。そして足あとはスィーニーと二人だけの秘密になったのだが、当の猫はその後まるでそれに執着がなく、きっと足あとをつけたことさえも忘れてしまっていたに違いない。猫とはきっとそういう生き物だ。
「母さん、ミサキ呼んできてよ」
「はいはい」
母は言われるまま家の中に戻り、すぐに妹を連れ出してきた。「ほら」と言ってそこを指し示すと、妹はしゃがみこんで八つ残った猫の足の跡を愛おしそうにさすった。
「写真もいっぱいあるし動画もあるじゃん。いつでもスィーニーに会えるよ」
そう言ったら彼女はぶんぶんと首を振った。
「写真も動画もスィーニーが映ってるだけだもん。もう居ないのをわざわざ確認するみたいで見るのつらい」
「…………」
そう言われてみれば、写真は確かにその時間を切り取っただけのものにすぎない。動画も画面の中で同じことを繰り返すだけで、それが過去の出来事だったということを再確認させられるだけのものだと思う。
何と言って妹を慰めればいいのか辟易するばかりだったが、様子を見ていると彼女は足あとにその答えを見つけたようだった。
写真や動画よりも、スィーニーのつけた足あとの方が彼女の存在を感じさせるだなんて、なかなか罪なことだ。ミサキはスィーニーの足跡をさすって、泣き笑いの表情で言った。
「ここにスィーニーが居たんだね」
明日になればスィーニーは土に還る。その後のよすがを妹はこの足あとに見つけたのだろう。それは、なんだかすっきりと理解できる心模様だった。
翌日、高い煙突からたなびく蒼い煙は、良く晴れた空に吸い込まれていくように見えた。
カーポートの奥の方、そこには今でもスィーニーのつけた足あとが残してある。
最初のコメントを投稿しよう!