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02.お粗相
気持ち良いんだけれど、ちょっとよろけてしまって、後ろから腕を支えられた。
振り返らなくても一色さんだとわかる。細いのに力強い腕。水の香水の香り。そのまま握っててくれたら嬉しいのにな。でもやっぱりすぐ離されちゃう。食卓には美味しそうなコールドカットの山があり、ピカピカのゴブレットには水が注がれていて、キラキラしたカトラリーがセットされていた。
「座って頂戴。メインを持ってくるからね。あなたちょっと来て頂戴。」
「おう、わかった。」
美沙さんの後ろから大柄な嵐がついて行く。手伝うのか、嵐。感心、感心。そんな風に二人を見ていたら、
「大丈夫?」
と聞かれた。ちょっと心配そうに私を見ている。
「え?」
「いきなり四杯も飲んでたから。大丈夫かなと思って。」
「一色さん、」
「何?」
「さっきの、」
「うん?」
やっぱりちょっと酔ってるのかもしれない。訊きたいことを我慢せずに言っちゃいたくなるんだから。
「見てたって、私のことを。あれ、本当ですか?」
そこへ、
「お待たせ―。ラザニア作ったんだけど、お口に合うといいなあ。」
「美沙のはうまいぞ。俺の好物なんだ。」
そう言って二人が戻ってきた。湯気を立てたキャセロールを若林先生が持って、美沙さんがサラダを運んできた。
「あ、すみません、私ったら何のお手伝いもしなくて。今から運べるものありますか?」
慌てて席を立とうとしたら、
「大丈夫、大丈夫よ。うちには大変優秀な助手がいるから。」
と美沙さんに制された。助手って、うちの大ボスも形無しだわ。おかしくて笑ってしまう。
「若林先生、美沙さんと一緒だと形無しですね。あの大ボスが、失礼ですけど、可愛いです。」
嵐は苦虫をかみつぶしたような顔で、ああとかうむとか唸った。
その後は美沙さんとボスのやり取りを聞いたり、すこぶる美味しいラザニアをお代わりしたり、それと共に新しい赤ワインを飲んだりして、時間があっという間に経っていった。綺麗な夜景と美味しい食事とお酒、そして何より大好きな人が隣にいる。嬉しくて楽しくて、やっぱり飲み過ぎたみたいだった。意識が遠のいて次にうっすらと気付いた時には、何だかぷっくりとしたものが頭にあてがわれていた。でもあまりに心地良くて、そのまま目を閉じていた。誰かが話している声がすぐ近くで聞こえる。大好きな透明な声が。
「ですね。多分疲れが溜まってたんじゃないですか。」
「それを言うなら、一色、お前だろう。大丈夫か?まあ俺が言っといて何だが、君島の指導は厳しいだろう。」
「ええ、部長は容赦しない方というのが、よくわかりました。」
「ああ、あいつはオペに入ると人格が変わるからなあ。自分も限界まで追い込むし、相手にもそれを求める。」
「はい、それは本当によくわかりました。」
「でも、報告はちょくちょく受けてるが、お前よくついて行ってるそうだな。」
「そうでしょうか。ならいいんですが。」
「で、どうだ。少しはワクワクするようになったか?」
「ワクワクですか、それはどうでしょう。でも、確かに水木先生が仰っていた、やってやろうという気持ちというのはわかるようになりました。」
「そりゃあ、いい。大進歩じゃないか。」
「そうだといいんですが。」
あ、嬉しそうだな。きっと今笑ったはず。って何、何で一色さんの声が上の方から、しかも至近距離で聞こえてきてるの?私はがばりと起き上がった。
「あ、起きた。」
美沙さんの声が聞こえる。
「おう、爆睡だな、立花。」
大ボスの声も。そして私が起き上がったところを見ると、クッションがぐしゃりとつぶれていて、そのすぐ脇に一色さんが座っていた。それって、これって、ええと。
「そう、葵ちゃん、一色君の横でぐっすりよ。寝顔、可愛かったわ。」
「す、すみません。申し訳ありません。」
ともかく平謝りだ。ああ何て恥ずかしい。大失態。今日はもう赤くなること100回目くらいだ。
「はい、葵ちゃん、お水。」
渡された水は冷たくてとても美味しかった。ごくごくとあっという間に飲み切った。それをじっと見ていた一色さんが、
「では、僕らはそろそろ。」
と腰を上げた。
「おう、そうだな、あんまり遅くなっても。お前らどうせ明日もラウンドに行くんだろ。」
「あら、まだうちは全然いいのに。」
「いえ、もう11時ですから。」
「そう?じゃあタクシー呼びましょうね。」
「すみません、お願いします。立花さん、大丈夫?」
「は、はい。もうすっかり。あ、でもおいとまする前にトイレはお借りした方がいいかも。」
「もちろんよ。じゃあ行っといで。」
私は慌ててトイレに行った。鏡を見るのが怖かったけど、とりあえずよだれはセーフだった。ああ、良かった。最悪の事態は免れたみたい。トイレから出てくると、
「もうすぐ下に来るみたい。良かった、タクシーつかまって。」
と美沙さんが言うのが聞こえた。
「すみません、夜遅くまで。ごちそうさまでした。」
と一色さんがお礼を言っている。私も慌ててブーツを履きながら謝った。
「本当に楽しくて美味しくて。度を過ごしてしまい、お恥ずかしい限りです。申し訳ありませんでした。」
「あらやだ、謝んないで。私達にも責任があるから。ちょっと恥ずかしいことばっかりつついちゃったものね。」
「ああ、そうだな。あれじゃ確かに酔うしかない。」
二人に笑われて送りだされた。
「ああ、そうそう、ジャンポール、私も一番好きよー。」
ドアが閉まる寸前に美沙さんの声が聞こえてきた。お祝いパーティーでも素敵だったけど、今日一緒に過ごして大好きになった。ボス、いいな、幸せ者だな。
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