02.ラウンド

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02.ラウンド

あれ?でもいないよな。 いつも土曜日は朝ラウンドしてるって言ってなかったか、前に。俺は立花がいそうなところをさり気なくチェックした。医局、PC周辺、廊下、挙句の果ては処置室まで。あちこちでナース達にいぶかし気な顔をされ、そろそろ止めようと思った矢先に、寺田先生に見つかってしまった。案の定、大声で聞かれる。 「よう。どうした一色、キョロキョロして。」 「あ、寺田先生、お早うございます。」 「はえーな。」 「先生こそ。」 「ああ、まあな。ちょっと担当の患者さんの合併症が気になってさ。」 「先週オペされた方ですよね?」 「うん。何か嫌な咳嗽(がいそう)が続いてな。」 「それは心配ですね。」 「だろ?だから今日もこれからX-Ray。」 「お疲れ様です。」 良かった。何も聞かれずに済んだ。そう思ったのに、大きな鹿の目はしっかり見ていたようで、 「先生、誰かお探しですか?」 と聞いてきた。人の良さそうな優しい目で。 「いや、別に。」 「そうですか?何だったら僕探してきますよ。」 こいつは善意からくる深追いってのが、結構ある。気持ちを傷つけないようにシャットダウンするのは結構難しい。 「いや、ほんとに別に探してないから。」 「あ…わかりました。」 ほらな、このちょっと傷ついたような瞳。これが苦手なんだ。悪いことをしたような気がするから。立花、一体どこにいるんだ?いてくれさえすれば、こんな思いをせずに済むんだが。携帯を引っ掴んでエレベーターホールに出る。上に行くボタンを押す。やっときたエレベーターには結構見舞い客が乗っている。土曜日だもんな。俺は空中庭園のある最上階を押した。 外に出るドアを開けると、突然からっ風が吹きつけてきた。しまった、また上着を忘れた。俺は陽だまりを探して急ぎ足になった。やっと日光の降り注ぐベンチを見つけて空を振り仰ぐ。真っ青な冬の晴天。身も心も透明になるような冬の大気にちょっと目を閉じて浸る。心の中が真っ青な空になった。そうしてから登録してある番号を押すと、寝ぼけた声が聞こえてきた。まだ寝てたんだな。そう言えば昨夜は俺がラウンドからやっと帰ってきた時に、病棟のドアから出て行くアップの黒髪を見た気がした。随分遅かった、確かに。そこからが慌てふためいて、その様子が目に見えるようでおかしかった。仕事では抜けがない優等生タイプなのに、それ以外ではあたふたしていたり、焦ったり取り繕ったり、忙しい。その立花が、急げばまだ間に合うかと問う。あ、言っちゃった、と思ったに違いない顔が浮かんで、俺は笑った。ここにいたらいいのに。今顔が見たい。じゃあ、待ってようかと言えば、お願いしますと答える。素直で真っ直ぐな返事が受話器の向こうから聞こえてくる。だから言った、待ってると。 俺は君を待つよ。一直線に俺を見つけて駆け寄ってくる君を。 やっとステーションで見つけた。楽しそうに近藤や寺田先生と話している。 「―立花さんなんか、いつも文句言ってます。」 ふうん、多分俺のことだな。同期には色々言ってそうだよな。だけど最近は俺と二人になると挙動不審ぶりを発揮する。何でも言えばいいのに。別に、とか、すみませんとかじゃなく。もっときちんと「立花」を表すことを。一生懸命で努力屋で負けず嫌いで、嬉しい時には目を輝かせる、そんな彼女を表すことを。そうしたらもっと近くに行ける気がする。近く?近くって何だ?最近、立花も変だけど俺も十分変だ。いつだって近くにいたし、いるじゃないか。なのに何だ? 思考を断ち切るためにステーションへと歩みを進めた。楽しそうな三人が普段よりずっとリラックスしてPCの前に陣取っている。立花は俺といる時より余程楽しそうだ。まあ、俺といる時の立花を観察したことなんて今まで殆どなかったけど。質問されて答える。手技をやってみせる。一年目の時こそ、手をとって指導したこともあったけど、今はもうそれも必要ない。普通に接して普通に終わる。声をかけたら、あっけにとられたような顔をして、まじまじとこちらを見上げた。わかり易い。頬が少し赤いまま、何やらPCに猛然と打ち込み始めた。それから呼ばれて、患者さんのご家族と一緒に病室へと出て行った。多分、あの病室だな。後で行ってみるか。 「なあ、立花さあ、最近変じゃねえか?」 寺田先生が大きな声で(と言っても地声なのだが)、鹿之助と俺に聞く。 「変、ですか?」 鹿之助がきょとんとしている。 「ん、何だか急にギクシャクしたかと思ったら今みてえに突然張り切るとかな。」 「立花さんはいつも張り切ってませんか?」 鹿之助が無邪気に返している。 「ああ、まあな。元気の塊だからなあ。でも何か変な気がすんだよな。お前にはどう?」 二人の瞳が俺を見る。もちろん変だ、十分。 「さあ、俺、あんまりその辺見てないもので。」 「だよな。一色だもんな。」 寺田先生が軽く溜息をついた。 「お前はほんと、変わんねえもんな。マイペースっていうか、我関せずっていうか。」 「あ、でもよく僕達に指導して下さってますよ。」 鹿之助が慌ててフォローしようとする。 「よくか?さっき立花が、うんとかそうとかしか言ってくれないってブウブウ言ってる、ってお前が言ったんだろうが。」 「あ、それは…」 鹿之助がこちらを申し訳なさそうに窺い見る。 「ああ、それはそうかもしれませんね。」 「一色、お前、自分で認めてどうすんだ?」 寺田先生が大げさに天を仰ぐ。 「よし、じゃあ立花は変、一色はそれに全然気付いていないってことで俺は帰るわ。」 「え、先生、もうお帰りですか?」 「ああ、一応落ち着いてるし。久々に理央とゆっくりしたいからな。」 「先生、本当に吉永師長ラブですよね。」 鹿之助がニッコリ笑って言う。 「ったり前だろ?じゃなきゃ結婚なんてしてねえよ。じゃあな。」 寺田先生が行ってしまうと、一気にスペースが空いた気がする。そして周辺温度も下がった気がする。 「鹿之助はまだいるの?」 「あ、はい、もう少し。」 「あんまりいるなよ。休める時には休んどけ。お前十分よくやってるから。」 鹿之助の鹿の目が止まった。そのままフリーズだ。どうしたんだ? 「おい。」 「あ、はい。有難うございます。何だか一色先生からそんな風に言ってもらったのが初めてで、ちょっと固まりました。」 「ああ、そう?そりゃ何かすまないな。まあでもとっとと帰れよ。」 「あ、はい。先生は?」 「俺もそろそろ帰る。じゃあな。」 そう言って、俺はそっと立花が消えた病室の方へと向かった。 病室からは話し声が聞こえてきた。立花がゆっくり相槌をうって、ご家族の訴えに耳を傾けている。土・日曜日は面会者とも話せる貴重な時間だ。俺は壁にもたれて待った。立花の温かくてしっかりした声を聞きながら。しばらくして、立花がお辞儀をしながら出てきた。俺を見て、目をみはっている。そしてそのまま根でも生えたように動かない。今度はどうした。俺がどうかしたのか。仕方ないから歩いて近よった。この過剰な反応にどう対処したら良いのか、俺にはまだわからない。なのに、爆弾を投げられた。 「近くて照れちゃう。一色さんがそばにいると胸が苦しい。」 逃げているような時が殆どなくせに、いきなりストレートに来る。自分自身に向けた感情だって持て余している最近の俺なのに、立花に対してだなんて益々訳がわからない。それなのに身体が勝手に反応して熱くなってくる。俺も変だ。寺田先生がここにいたら大声で宣言される、確実に。沈黙が二人の間に落ちてくる。黒い瞳にじっと見つめられているのがわかり、いよいよ熱くなってくる。ようやく今夜の招待のことで大事なことを思いついた。土産だ。助かった。立花が、チョコレートとワインはどうかと言っている。さすがこの辺の段取りは手早い。パーティーでもケータリングを一手に引き受けてくれて助かった。俺はこの三年で随分疎くなってしまった。店だの、レストランだの、カフェだの。神原だったら「それまずくない?全部デートで必須だよ。」と言いそうな類のことに。あいつは今頃デートか。そう言えば時々夜中に電話で話しているのが聞こえる。病棟からヘトヘトになって帰宅すると、神原の部屋から明かりが漏れていてホッとする。その時にあいつの明るい声も聞こえてきて、余計に安心する。神原の恋人か。どんな人なんだろう。 放っておくと立花一人で買いに行きそうだから、一緒に行くと言った。そうしたら何故か耳まで赤くしている。変化が多彩で見ていて飽きない。そんな余裕な心持でいたら、爆弾二発目が破裂した。そばにいて欲しいと言っている。自分の足元を見ながら。今日の立花はなかなか手ごわい。こちらの準備が整う前に次々と投げ込んでくる。自分が投げ込む時は俯いているくせに、その後はずっと俺の顔を見ている。そんなんだったら、爆弾を投げる時から顔を見て言えばいいのに。 またそば、だ。そばにいて欲しいってどういう事だ。字面だけで言ったら俺達は大体そばで過ごしている。別々にORに入っていない限りは。第一立花が追いかけてくるじゃないか。それでそばであれこれ答える羽目になる。だから取り立てて言う意味が今一つわからない。俺も俺だ。どうしてこうゴチャゴチャと考えているんだ。少し前だったら気にも留めてなかったはずなのに。 その時、ステーションの方から声がかかってホッとした。よし仕事だ。少なくとも立花に関するよりは遥かにわかりやすい。去り際に待ち合わせの電話をもらう約束をした。何で今喋っていた時に済ましてしまわなかったんだろう。わざわざ手間も時間もかける。いちいちが不可解だ。やっぱり俺も変。立花も変。でも、電話がかかってくるんだ。何故か少し心が温かくなった。 で、案の定、神原がルームメートとわかって笑っていた。しかも大いに。鉄板のジョーク。俺と神原が同室だというのは、そんなにおかしい組み合わせなのだろうか。俺達自身は、というか少なくとも俺にとってはベストな人選だとわかりかけてきたのだけれど。やっと笑いが収まって、GINZA SIXで待ち合わせることになった。SIXに行くのは初めてだ。出来てもうだいぶ経つというのに。でもそもそも銀座に行くこと自体が最近滅多になかった。土曜日の夜の銀座か。何となくワクワクする、非日常過ぎて。母親の大好きな銀座。そう言えば、最後に母さんと喋ったのはいつだっただろう?買い出しで理紗に車を借りる電話をした時か。元気そうな声をしていて安心した。でも母親と言うものは、必ず元気そうな声を出す。前に風邪がひどい時に電話した時も、苦しそうな声なのに笑ってまでいた。そうなのよ、38度まで出ちゃってんの、参ったわ、と。
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