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01.KRUG
「着いた。」
「着きましたね。さすが若林先生達のご住居。高級感が漂いまくりです。」
「うん、だな。俺らの寮とは大違いだ。」
「私のマンションとも段違いですよ。ロビーなんてもの、無いし。」
そんな感想を言い合いながら、入口のインターフォンを押して二人で名乗ると、
「はーい。いらっしゃい。今ロック外すね。」
と美沙さんの明るい声が聞こえてきて嬉しくなった。歓迎してくれている、そんな声音だったから。二人で初めて出かけた場所で温かく迎えてもらえるのは、とても嬉しい。
13階建ての13階だった。さすがのトップフロア。
「一色さん、どうしましょう。ワンフロアに二軒しか入っていませんよ。」
「うん、すごいな。」
思わずひそひそ声になりながら、教えてもらった1301号室のインターフォンを押した。パタパタと音がして、
「いらっしゃい。寒かったでしょう、さあ入って入って。」
と真っ赤なセーターにベージュのスカートを履いた美沙さんがドアを開けてくれた。温かな光と良い匂いが漏れてくる。そのすぐ後ろに、
「よお、よく来たな。」
と大ボスが立っていた。ああ、何だか呼吸器外科だって十分ボスのテリトリーなのに、こうして本拠地でのボスを見るだなんて。何だか怖いもの見たさとでも言うか、何と言うか。一色さんが
「今日はお招き有難うございます。」
と挨拶をする後ろにこれ幸いと隠れた。
「立花はいるのか?」
でも嵐から逃げ隠れなんて出来るはずがない。そんなことはこの二年間で重々承知だ。だから覚悟を決めて、顔を上げた。
「若林先生、休日のおくつろぎのところにお邪魔いたします。」
ボスは黒のタートルに焦げ茶のコーデュロイのパンツ姿だった。家にいる、私服のボス。全然慣れないんだけど、どうしよう。
「何だ立花、目が泳いでるぞ、どうした。」
「な、何でもありません。」
一色さんが笑って、
「立花さんはきっと、若林先生のオフの姿に戸惑ってるんですよ。病院での姿に慣れてますから。」
まただ。どうしてこの人は私の気持ちがわかるんだろう。驚いて顔を見上げると、にっこりと見返された。
「何だ、照れてどうする。お前、今夜はずっと照れてるつもりか?」
「ちょっと征仁、いきなりいじめてどうするの。ねえ、そりゃびっくりするわよねえ。上司の家っていうのは緊張するし。さあ、じゃあ早速飲みましょう。そうしたらほぐれるわよ。ね、征仁。」
「なあ、言ったとおりだろ?この人はともかく飲みたいんだよ。」
「あらやだ、そんなこと言ってたの?」
二人の会話にちょっとリラックスして、ブーツを脱いでスリッパに履き替えた。トイレを借りて手を洗う。ついでに顔も鏡でチェックする。良かった、あの人混みでも、どうにか崩れていない。リップをつけ直して、笑顔を作ってみる。大丈夫、今夜を楽しもう。廊下に出て、皆がいるリビングに行く。一面が窓になっていて、夜景が綺麗に見える。
「うわあ、素敵ですねえ。さすが最上階。」
思わず窓にすり寄った。外の景色を見る。東京のど真ん中の夜景。きらびやかな光がそこここに反射している。金色の豆電球をびっしりとまとった黒い木々のような、東京の夜。ずっと見とれていると、
「立花、お前鼻息つけるなよ。」
と声がしたから、慌てて窓から離れた。振り返ると既にグラスを持った若林先生と一色さんが笑ってた。
「葵ちゃんは、って、そう呼んでもいいかしら?」
と両手にワイングラスを持って美沙さんが奥から出てきた。
「あ、はい。」
「じゃあそう呼ぶね。葵ちゃんは本当に可愛いよね。素直で、まるわかりで。はい、グラス。ワインは最初はシャンパンなんだけど、いい?」
「あ、はい、勿論です。大好きです、泡。」
「あら、嬉しい。じゃあ征仁、注いであげて。」
「あ、いや、私が。」
「お前、今日は俺達がホストなんだよ。客が手酌でどうする。」
「す、すみません。じゃあお願いします。」
あのお祝いパーティーでお渡ししたバカラのワイングラスに、金色のシャンパンが注がれる。上質な細かい泡が次々に上に向かっていく。美味しいシャンパンの証拠だ。ウットリと見つめていると、
「立花、何だか美沙と同じ顔をして酒を見てるなあ。お前も飲むのか?」
と嵐に聞かれた。
「あ、はい、好きです。」
「一色は?お前どんどん飲みそうだなあ。しかも顔に出ないタイプ。」
「はあ、まあ。」
そうなんだ、一色さんもお酒飲むんだね。嬉しいな,
一緒に飲めるって。あ、一緒って思っちゃった。
「葵ちゃん、良かったね、一色君と一緒に飲みに行けるじゃない。」
まただ。何だどうした。この人達は人の気持ちが読めるんだろうか。びっくりしていると、
「やっぱり可愛いよね。いいなあ、これから二人で何でも一緒に出来るよ。」
と美沙さんの本気で羨ましそうな声が聞こえてきた。案の定、嵐が
「俺達だって出来るだろう?」
とすねている。可愛い。
「勿論よ。でもさあ、恋の始めってやっぱり良いものなのよね。ドキドキして切なくて。じゃあそんな二人に乾杯。」
こ、こ、恋の始め?
そんな私の動揺など全く気にも留めずに、美沙さんはごくりとシャンパンを飲み干した。
「あー、美味しい。さあ、あなた達もどんどん飲んでね。」
お言葉に甘えて、私も同じようにごくりと飲んだ。本当に上等で美味しいシャンパンだった。クリュッグ?覚えておこう。本当に美味しいもの。
「ああ、でもなあ、俺は立花が一色一直線なのはすぐわかったよ。こいつ、本当にわかり易いからな。何てったって、カルガモみてえに最初っから一色の後ばっかついて歩いてたし。」
まずい、何か言わなくちゃ。
「それはですね、一色さんはチーフレジデントですから、まず質問するのは当たり前ですから。」
「そうか?鹿とか松本とか、寺田や水木にもよく聞いてるぞ。時々なんか君島にもな。でも、お前は一色一択だからな。」
えええっ。それはもうマズい。顔がほてってくるし。隣の一色さんがどんな顔してるのか、怖くて見られやしないし。
「いや、でも一番年が近いし。やっぱり色々聞きやすいですよ。」
踏ん張る。
「ふうん、そうかね。でもお前、質問だけじゃなくて手技が上手くいった時とか、一色のところに飛んでって教えてただろう?何度か見たぞ。キャンキャンまとわりつかれて、一色はよく我慢してるなあ、って感心してたんだよ。」
「キャンキャンって。それは一体…」
ついに黙ってしまった。何だかもう何を言っても逆効果な気がして。
「だけどなあ、」
まだ続くの?
「一色がどう思ってるのかは、俺にはさっぱりわからん。お前、感情の起伏がないもんな。」
「いや、なくはないですけど。」
初めて声を聞いた。相変わらずすっきりとした明度の高い声。全然恥ずかしがっても気まずそうでもなさそうで。
「あら、そう?でも一色君、よく葵ちゃんのこと見てるよね。少なくとも、あのパーティーの日はそうだった。」
美沙さんが得意そうに割って入った。思わず一色さんを見上げてしまう。茶色の瞳が固まっている。やっと。
「葵ちゃん、全然気付いてなかったの?」
何度も頷いた。首が振り切れるくらいに。だって、一色さんが私を見てた?
「俺も全然。きっと病棟のやつら、誰も気付いてないに違いない。」
美沙さんは、大きなため息をついた。
「多分あなた達ハデハデ軍団はね。だけど君島先生はきっと気付いてると思うな。」
「ハデハデ軍団って何だよ?しかも君島はわかってるって?」
「ええ、そうよ。あの人は静かに色々なことがわかるタイプでしょ。ちょっと一色君と似てるし。」
「君島か。あいつは本当に人気があるんだよなあ。」
「勿論よ。ああいう密やかな人に女って惹かれるの。」
「ハデハデですみませんね。」
「あら、私が一番好きなのはあなただって知ってるじゃない。」
うわあ、美沙さん、堂々過ぎます。私が照れちゃう。なのに、ボスは慣れたもので(?)、嬉しそうに美沙さんの肩を抱いている。ええっと、どこに視線を向けたらよいのか。私は、いきおい、またグラスを飲み干した。
「あら、葵ちゃん、良いペースじゃない。征仁、ほら。」
「あ、おお。一色お前も空だろ?注いでやるから、こっちに出せ。」
同時にグラスを出してしまって、手がぶつかった。さっき言われたことを思い出して赤くなってしまう。
「あら、可愛い。赤くなってる。でもね、葵ちゃん、」
美沙さんがちょっと真面目な声になった。
「は、はい。」
「あなた、素直なくせにきっと一色君には意地っ張りでしょ。」
動機が激しくなって、リビング中に響き渡っているような気がする。
「好きだったら好きって言うのよ。大丈夫、この人は受け止めてくれると思うな。上司とか職場とかゴチャゴチャしたことは放っておいて良いのよ。大切なことは、あなたと一色君の気持ちだけなんだから。」
「ああ…はい。ええと何だかもう私恥ずかしいことばかりで。」
やっぱり向かう先はグラスだ。またもや金色の液体を飲み干した。そんな私をフフッと笑いながら美沙さんは見て、
「さあ、じゃあそろそろ食事にしましょうか。空腹だと悪酔いするしね。」
とダイニングテーブルの方へと私達をいざなった。一色さんの後ろからついて行きながら、顔が火照って仕方なかった。
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