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失敗した。
謝りたくて電話したが、その電話に彼が出ることはなかった。
家にいれてくれるくらいには、心を許してくれているはずなのだ。でも、しばらくは行けないだろう。
謝りたいと思いながらも、具体的になにを謝ればいいのかわからない。こんな状態で会ったって、彼の怒りは収まらないだろう。むしろ悪化するのが目に見えている。
それでも、彼に会いたかった。少しずつ距離を詰めて、オレを特別にしてほしかった。身体だけじゃない、こころまでつながった関係になりたかった。それが、どうしてこんなに難しいのだろう。オレの友達なんかはよく彼女とつきあえたものの、手を出せなくて困っているというのに。
じっとしていられなかった。彼と同じ講義にやたら気合を入れて臨んでみたものの、彼は見当たらず、彼の住むマンションはオートロックで入れず、駄目元でインターフォンを押してみたが出なかった。いないのかはたまた居留守なのかわからないが、とにかくオレは春川に会えなくて、それがもどかしくて、無意味に大学をうろついたりしてしまう。
それでも春川には会えなかった。また一週間が経って、春川と同じ講義の時間になる。
「春川っ」
講義が始まる二分前、前方の席に彼を見つけてわざわざ隣に移動した。彼はオレに気づいているのに、オレを見ることもしなかった。
「ここ座ってもいい?」
「ダメ」
「なんで」
「……いつも一緒にいる馬鹿そうな連中のとこにでも行けよ」
「え、なんで知ってるの?」
思わず顔を上げると、自分の失言に気づいたのか、彼は視線を泳がせた。逃げられる前にすかさず声をかける。
「オレのこと見ててくれたの?」
「見てねえよ。たまたま視界に入っただけだ」
「てかそれって嫉妬……?」
「違う」
踵を返して帰ろうとする春川の手首をつかんだ。オレよりも細い、骨ばったそれは熱くて、指先から体温が伝わってくる。
「春川」
「……」
「ほんとにおまえ、わかんねえ……」
「春川のこと好きだから、嫉妬してくれて、嬉しい」
「はぁ? このまえの講義のあとでたまたまおまえが何人かといるのを見ただけなんだけど」
「オレといない時もオレのこと見てくれたの?」
「……帰りたいから手を離せ」
オレの質問には答えず春川はオレに掴まれた腕を動かす。
「まだ怒ってる?」
「怒ってないから手を離せ」
春川はため息を吐いた。
「……」
オレには一つ、気にかかっていることがあった。
春川に会えない間、サークルの関係で部室棟に行ったときのことだ。
「原田、最近めっちゃイライラしてない?」
サークルの部室のある階の廊下で、あの原田という男と知らない女の先輩とすれ違った。ホテル行く? なんて下品なワードも聞こえてきた。
「うっせえな、おまえより具合の良い奴がいんだよ」
「なにそれ、サイッテー」
信じたくはないが、きっと春川のことだと思った。
「るせえ、クソ、マジであいつ……」
「あは、フラれたんじゃね? 原田雑だし」
黙ってろ、と随分と苛立った声が聞こえた。足音が徐々に遠ざかっていく。
つまり、原田と春川は最近会っていないということだろうか。
そんなことを知ってしまったら、オレにも望みがあるんじゃないかって、いつかオレだけを選んでくれるんじゃないかって、期待してしまうに決まってるだろう。
八月生まれだから葉月、なんて安直な理由で名づけられたオレは、その経緯の通りなかなか安直だ。それでも、原田のことは、春川に訊くことができなかった。だって、きっとまだ、春川はオレのことを選ばない。
「……もういいよ、好きにしろ」
そう言いながらも、彼は許したような顔はしていなかった。
すっと、春川の手が顔に近づいてきた。
「春川?」
「襟、曲がってたから、」
一瞬、キスされるんじゃないかと期待した。オレのシャツの襟を無言で直した春川は、なぜかほしいものが手に入らなかった子供のような顔をしている。
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