春の温度

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 それからも何度か春川の家に行った。コーヒーの香りが馴染みの香りになって、それから春川との距離が少し縮んだ気がする。  性的なことは、なにもなかった。ないように心がけた。そういった話はオレも春川も器用に避けていた。話したところで平行線になることはわかりきっていたからだ。  それでもときおり彼を見ていると、ムラッとくることがあった。その頬をさわりたかったし、その首筋に噛みつきたい。細い手首を見るとわけもなく掴んで引き寄せたくなった。  春川を襲う夢を何度も見た。夢のなかのオレは獣みたいで、春川が嫌だと言うのも訊かずに本能のままに腰をふっていた。  そもそもオレは性に淡泊なほうではないと思う。彼女ができれば、気分じゃないなんて思いつつもとりあえず抱いたし、相手のことがそこまで好きじゃなくても抱けた。今思うと最低すぎる。最近は春川のエロい夢ばかり見る。どうしたらいいのかわからない。  多分、春川は原田という男とまだ関係をもっている。まるで当てつけるように首筋に残された痕をオレは何度見たし、そのたびに気が狂いそうになった。我慢ならなくて、そのまま襲ってしまいそうになった。けれどそうしなかったのは、あの男と同じになりたいわけじゃなかったからだ。何度も何度もそう自分に言い聞かせて自分を落ち着かせた。  もうそろそろ帰ろうと思っていた。春川の家で夕飯まで食べてしまった。春川はいつも簡単なものと言いながらパスタだとかリゾットだとかお洒落なものをふるまってくれる。大学生の一人暮らしなのに、レトルト食品やカップラーメンは見当たらなくて、パスタのソースさえ手作りだ。  これ以上いたら、余計な欲が生まれそうだ。 「オレが好きなバンドすぐ揉めるから新曲あんまり出ないんだよな……」  なのにこんなくだらない話を続けてしまう。このまえなんか解散しかけたし、と言うと、なにそれ、とテーブルで頬杖をついてオレの話を聞いていた彼が笑った。 「え、今笑っ、」 「ちょっと気になるな」 「え? マジ?」  あの笑みを写真に残しておきたかった、惜しいことをしてしまったと思うのと同時に、自分の好きなものに興味をもってくれたのが嬉しくてオレは舞い上がった。 「CD貸してあげるから、いや、オレが貸したいから聴いて」 「べつにいいけど」 「たまーにライブすんだよ、大きい箱じゃないけど、楽しいし、行こうよ一緒に!」 「……俺とおまえが?」  春川の驚いた顔を見て熱が急激に下がって冷静になる。水を得た魚みたいに生き生きとしていたオレだったが、突然陸に釣り上げられてしまったような気分になる。 「……悪い、調子乗った」 「……」 「最近春川が優しいから」  下げた視線を、伺い見るようにおそるおそる上げる。するとぱちりと目が合った。 「なんだよ、俺はいつも優しいだろ」 「また真顔で冗談言う」 「冗談じゃねえよ」 「え、なに? それも冗談?」 「違う」  馬鹿、と言われる。オレはけっこう春川に馬鹿って言われるのが好きだから、ちょっとにやにやしてしまう。どうしてかわからないが、まったく悪い気はしないから不思議だ。オレは唇をきゅっと閉じて、鼻から息を吸って、一呼吸おいてから口を開く。 「じゃあ、」 「……やっぱやだ」 「まだなにも言ってないのに」  なにを言おうとしているかなんてわかっているといった顔で春川は視線を逸らす。 「いいじゃん」 「なにがいいんだよ」 「一緒にさぁ、」  立ち上がって春川の近くまで行く。お願いする意味を込めて彼の手をぎゅっと握った。 「デカい、近い、寄るな」  やめろ大型犬、と言われて人間と思われてないならこれ以上近づいてもいいかななんて思ってしまう。握った手がするりと抜けて肩をどんと叩かれた。 「うわっ」  思ったより力が強い。 「おまえ、ほんと」  よく飽きないよな。いつもの言葉を、彼は言う。 「おー、そろそろ飽きるかもな」  ちょっとしたこころのはずみだった。気まぐれで、そんな風に返事をした。そんなわけないのに。 なんだかムキになっているみたいで恥ずかしくなり「じゃあ、」と立ち上がった。玄関へ足を進めようとすると、服の裾が引っ張られる感覚があった。 「今さら飽きるなよ」  それは、小さな声だった。 「ん? なに?」 「……だから、飽きないで、ほしい」  時が止まった。比喩ではなくこれは本当に止まったと思った。オレは目を見開いて、でも彼がよく見えなくて、水のなかにいるみたいに周りの音もよく聞こえなくなって、それから。 「……」  抱き締めたくなる衝動を死ぬ気で抑え込んだ。これまでの人生で一番真剣な時間だったかもしれない。 「……飽きるわけねえじゃん、」  むしろ好きっていうか、オレのこと好きになってほしいっていうか、としどろもどろに言っているうちに自分がなにを言っているのかわからなくなった。余計なことを言ってしまった。 「もう、好きだから」 「んー、って、え?」  自分に都合の良い妄想が聞こえた気がして、ぴたりと足を止める。いやいやないだろ、そんなわけがない。わかってる。わかっているはずなのに、無様に期待して、今なんて言った、とオレは訊き返す。すぐ後ろに春川がいるのがわかっているのに、ふり返ることはできなかった。 「とりあえず、」 「へ?」 「もうやめるから」  ぎこちなくオレはふり返る。やめるというのは、あの男と関係をもつことを指しているのだろうか。混乱しているオレをよそに、春川はまっすぐにオレを見て、真剣な表情をしていた。 「……うん」 「そしたら、さ」 「うん」 「……やっぱなんでもねえ」  関係は一歩進むのかもしれない。死んでも人に言えないが、ここ一ヵ月くらいで春川の夢を何度も見た。夢のなかの春川は艶やかにオレを誘い、オレは彼の肌に指先を這わせた。起きたときには下着を汚していて、やるせない気持ちになる。もう限界だった。春川と、こころも身体も繋がりたかった。オレのことを好きになってほしかった。もう、彼の家から帰るときに見る、淋しそうな表情を見なくて済んだらいい。
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