春の温度

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 今日も、講義が終わったら春川に会うつもりだった。 「ちょっと、水原聞いたか?」  教室を出ると、隣の教室で講義を受けていたらしい鈴木が興奮したような顔でオレに話しかけてくる。 「なんかあったの? なんか今日ざわざわしてね?」 「おまえあいつと仲良かったよな」  ほら、あいつ、春川ってやつ、と鈴木が言う。 「ま、まぁ……で、なに?」 「部室棟で四年の先輩とヤッてたらしくてさ、つきあってたのかは知らねえんだけど、別れ話かなんかで揉めて流血沙汰だってよ」  さっき救急車きててさぁ、ちょっとした騒ぎだったよ、と上擦った声で鈴木が言う。 「……え?」 「あいつ顔は綺麗だと思ってたけどさ、まさか相手が男とはな……」  つか先輩のほうって同じサークルじゃなかったっけ、と鈴木が訊くのにも答える余裕もなく、オレは走る。階段を駆け下りて、棟を出る。部室棟のほうを見たがもうすでに騒ぎは収まったのか人だかりはできていなかった。けれどすれ違いざまに「さっきの見た?」「マジやばかったよね」「春川って人、イケメンだから気になってたけど、相手がまさか男だとは思わなかったわ」なんて女子が喋っているのを聞いて、鈴木が喋っていたことが本当だと理解する。 「なにやってんだよあいつ……病院ってたしか……」  救急車が来ていたと聞いたから、大学近くの大きな病院だろう。すれ違う人にもかまわず、オレは必死で走った。  心配している。春川が心配だった。なのに、オレのなかには不安や心配よりも、ふわふわとした不思議な高揚感でいっぱいだった。むしろ、なんだか嬉しかった。ちゃんと心配できないなんて失礼なのかもしれない。疲れて足どりがどんどん重くなっていく。それなのに、ずっと走り続けられるような気がした。はやく彼に会いたかった。オレのためにあの男と縁を切ろうとした彼に。彼に言えば「おまえのためなんかじゃない」と言うと思うけれど。そしたらオレは「まあまあ、照れんなって」なんて言う。そんな軽口を言い合いたかった。  大学近くの病院について、人が振り返るのにも構わず、オレは一直線にカウンターに向かった。 「すみません、春川深波って人ってこの病院運ばれて来ませんでしたか?!」  オレの声の大きさにただの受付の女性は驚いていたが、すぐに手元のタブレットで調べてくれた。エレベーターを待つ時間すら惜しくて、階段を駆けのぼる。  転びそうになりながらも伝えられた病室に駆け込んだ。 「春川!」  彼は眠っていた。大きな声を出してしまったことにハッとして今さら口元を押さえたけれど、春川は眠ったままだった。  近づいてみれば彼の顔に酸素マスクがついていて一瞬ぎょっとしたが、近くを通り過ぎた看護師さんが「もうすぐ目を覚ましますからね」と笑顔で言ったので安心する。頬には大きくて分厚いガーゼが当てられていた。四人部屋のようだけれどほかのベッドは空いていて、病室にはほかに誰もいなかった。 「はやく起きねえかな」  窓際の小さなパイプ椅子に座って春川が目を覚ますのを待っていた。窓を開けて外で木々がゆれる音を聴いた。陽が少しずつ傾いていく。病室がオレンジ色につつまれて、彼をあたたかな色で照らした。いつも体調が悪そうな肌の色をしていたし、オレと居るときは高確率で不機嫌な顔をしているのに、今は顔色も良いし、その寝顔は楽しい夢を見ているようだった。 「……春川」  はやく起きて。  その日、彼は目を覚まさなかった。面会時間が終わってしまい、オレは申し訳なさそうな顔をした看護師さんに追いだされてしまった。しかたなく、明日の面会時間を聞いてしぶしぶと帰った。  翌日、オレは朝から病院に向かった。春川はまだ目を覚まさない。 「おかしいな、脳に損傷はないからそろそろ目を覚ましてもいいころなんだけど」  すれ違いざまに巡回に来ていた医者が、隣の看護師に向かって言った。もしかしたら春川のことではないかもしれない。けれど、オレの頭のなかに最悪のストーリーが次々に浮かび上がってきて、身体に上手く力が入らなくなる。詳しいことは何も知らないが、揉めたらしいし、頭を打ったりしたのかもしれない。もし、その衝撃のせいで目を覚ましていないのならば。嫌な予感ばかりが頭をよぎり、ずきずきと身体を突き刺す。  パイプ椅子に座ってぎゅっと手を組む。近くに居ると気が狂いそうだった。じっとしてられなくて立ちあがったり、トイレに行ってみたり、意味もなく廊下に出てまた部屋に戻ってきてみたりする。次に春川を見たときには、目を覚ましているんじゃないか、そんな期待とともにベッドに視線を向けるが、そこには穏やかな顔をして眠る春川しかいなかった。 「……あ、」  何度目かわからないくらい廊下を歩いて戻ってきたときだった。春川の眠るベッドの横に、綺麗な黒髪の女の人が座っていた。一瞬恋人とか昔の恋人とかそういう関係の人なんじゃないかと思ってぎょっとしてしまったが、よくよく見てみると顔の造形が彼に似ているような気がした。それに、窓から入る日差しを浴びて灰色っぽく光る髪は、春川と同じだった。 「あの、すみません、」  春川の顔を見て、神妙な顔つきで俯いていた彼女がオレの声に反応して顔を上げる。 「人違いだったら申し訳ないんですが、春川さんでしょうか」 「……ええ、はい」 「もしかして……春川のお姉さんですか」  似ている。春川に会ったときまでとはいかないまでも、なんか、びびっとくる。彼女の顔を見ると、さらに早く春川に会いたいと思ったし、春川と喋りたいと思った。 「深波の友達?」  オレの言葉に頷いたあと、彼女はオレにそう訊いた。 「え、あ、はい、一応」 「……すぐに目を覚ますって医者が言ってたけど、目を覚まさないから」  困っちゃうね、となにを言うか迷ったような顔をした後、彼女はぽつりとそう言った。 「だ、大丈夫ですよ! すぐに目を覚ましますって」 「でもびっくりしたな。深波に見舞いに来てくれるような男友達がいるとはね」  友達ずっといないんだと思ってた、穏やかな表情で彼女は笑う。  どうしても出席しなければならない演習の授業の時間になってしまい、オレは彼女と連絡先を交換して病院を後にする。彼女は「深波が目を覚ましたら連絡するね」と言って手をふった。親は来てないようだった。春川の話を聞いた限り、両親は有名人のようだから忙しいのかもしれない。  ちょうど講義が終わったタイミングだった。 「深波が目を覚ましたよ」  お姉さんに連絡をもらってオレは息を呑んだ。手も足もふるえていた。そのまま、なにも考えずにオレは病院に向かって走りだしていた。よく考えたら次の講義があったけれど、そんなの気にしていられなかった。  足を止めない。これで、これでハッピーエンドだ。いや、これから始まるのだ。作り話とは違って、オレの人生はこれからも続くのだから。  早く春川に会いたい。早く彼に会って、抱き締めたかった。 「春川!」  病室に行くと、もうそこに春川はいなかった。
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