春の温度

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 鈴木が間違えてとってしまった五限があるのだとしぶしぶと部室を出て行ったあと、オレも続けて部室を出た。まだ部屋にいた同期の男女に呼び止められたが、振られた話をまた掘り返されそうで面倒だったので用事があるととっさに嘘をついた。いや、嘘ではない。オレはまだこの部室棟にいるかもしれない春川を探したかった。  どうしてサークルの先輩と一緒にいたのだろう。部室でそれとなく先輩の名前を訊きだして、あの人が原田という名字であることと、あまりいい噂が絶えないらしいということがわかった。どうやらあの人の餌食になった女子が少なくないらしい。使われていない部室に女を連れ込んでいたという目撃情報をたくさん聞いた。そして、その対象は女だけではないということも。  鈴木には別れた話ばかりを訊かれて少しムッとしていたが、その情報を教えてくれたことには感謝した。それもあって、オレはぜんぜん落ち着けないし、とにかくはやく春川に会いたかった。彼が原田の同類なのも嫌だし、彼が原田になにかされていたとしたらもっと嫌だ。自然と歩くスピードが上がる。  べつにもう帰ってしまっているならそれでいい。けれど、なにかあったらと思うと不安になった。だって、あいつの見た目は誰から見たってとても良いのだから。  そういう妄想をしなかったわけではない。というか、した。そうしてオレはやっと、ふわふわと浮いた状態からちゃんと地面に足がついたような気がした。深く考えるまえに口にしているオレの言葉たちは、誰かと比べるまでもなく軽くて、自分でさえも本当だと言い切れるのかわからない。言い切ってみたところで、少し時間が経てば嘘になってしまっているときもある。オレはオレ自身の感情を、言葉で証明することが誰よりもできなかった。 だから、彼には申し訳ないが、「そういう」欲を感じたことこそがオレの感情の証明の手助けになるのではないかと思うと、少し嬉しくなってしまった。たとえそれが浅はかな考えであったとしても。 「……あれ、」  そこは、一時期サークルの人数が増えすぎてしまったときに使っていたという第二の部室の前だった。ドアに古ぼけたバドミントンのラケットとシャトルのステッカーが貼ってある。廊下はしんと静まり返っていて、周りに人がいなかったので、オレはドアにそっと耳を当てた。最近はまったく使われていないらしいが、そこに誰かいるならなんらかの音が聞こえるはずだ。しかし、案の定物音はしなかった。オレの思い過ごしかとほっと息を吐いてドアに寄りかかったそのときだった。 「うわッ、」  ちょうどドアノブに肘をのせてしまったことも手伝って、ドアが少し開いたのだ。鍵がかかっていないことに不用心だなと思いながら顔を上げると、なにかが視界の隅で僅かに動いた。  驚きのあまり声が出なかった。誰かが、小さな部屋の隅に胎児のように丸まって横たわっていた。 「……春川?」  オレの嫌な予感は、当たってしまったのかもしれない。 「えっ、どういう……」  乱れた髪と服に、ところどころが赤くなった肌、それからぐったりとした身体。彼がなにをされたのかなんて、誰に言われなくてもわかった。 「……なんでいんだよ」  ため息とともに返ってきた声は案外ちゃんとしていて、オレは少しだけほっとする。それでも、明らかに乱暴に扱われたことがわかるその姿は痛々しかった。 「びょ、病院に……」 「行かなくていい」  思ったよりも強い力で腕をつかまれる。たしかに、意識もはっきりしているし、声もいつも通りだ。けれど、そう見えるだけかもしれない。 「た、立てるか?」  立てる、と言って彼はオレの手も借りずに立ち上がる。 「大丈夫だから放っておけよ」 「そ、そんなことできるわけないだろ」  オレの声がふるえていた。当事者じゃないのに身体中に痛みを感じるような気がしてきて、うまく力が入らなくなる。 「なに」 「いいから」 「俺はよくないんだけど」 「なんでそんなことしてるんだよ」  このふるえは怒りからくるものなのか、それとも悲しみからくるものなのか、オレにはわからなかった。感情の向かう先だってわからない。春川をこんな目に合わせた奴が憎いのか、こんな目にあっても大丈夫だと言う春川が憎いのか、それともなにもできなかったオレ自身が憎いのか。 「……」 「は、春川」  なにか弱みを握られているのかもしれない、そう思った。 「……なんでそんなこと訊くの」  関係ないよな、と吐き捨てるように春川が言った。少し笑っている気がして、オレはなんで春川が笑うのかわからなかった。またオレに呆れているのだろうか。 「たぶん、好きだから、春川のこと」 「は、なにそれ」  会ってまだ一週間なんだけど、と眉を顰めた春川が言う。 「……ごめん」 「たぶん、ってなんだよ」 「わ、わかんない」  どちらしろ今話すことじゃないな、と春川が呆れたように笑った。その笑いもこの場には不似合いで、オレは不似合いな理由を考えて悲しくなった。
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