春の温度

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 オレは春川に合わせてゆっくりと歩いた。それくらいしかできることがなかった。陽が沈んで辺りは暗かったが、学生らしき若者とよくすれ違った。甲高い声で笑ってみたり、大きな声でびっくりしてみせたり、彼らはとても楽しそうだった。そういう集団を見る度に、なぜあんなことをされるのが春川じゃなければならなかったんだろうと思った。 「……ここ」  足を止める。大学近くの学生街から少し離れたマンションの一室が彼の家だった。玄関の前まで一緒に行くと、いつもの嫌そうな顔をされる。 「言っとくけど、お礼にお茶でも飲んでくか、なんて言わないからな」 「わ、わかってるよ」  オレを家に入れるつもりはないようだった。そこで自分がもしかしたら部屋に入れてもらえるかもと期待していたことに気づく。もちろんそんな奇跡は起こらない。ドアの横の壁によりかかった。 「送ってくれてありがとう。まあ、べつに必要なかったけど」 「ひどっ」 「じゃあ、」  ふり返り部屋へ入っていこうとする彼の左手をつかんだ。 「あ、あのさ、……って、」  手首が熱い、と気づくのと同時に激しくふり払われた。 「帰れ」  言いながら靴を脱ぐ、その瞬間に彼の身体がくらりとバランスを崩した。 「おい!」  思わずがしりと強く両肩をつかむと彼の肩が僅かにびくりと反応する。怯えのようなそれに、得体の知れない感情が沸き上がるのを感じた。 「ごめん、勝手に入る」 「やめろ」  そうは言うが、なんだか声も弱々しい。額にそっと手を当てるとこれでもかと言うほど雑にふり払われた。 「お茶はいらないからな」 「出さねえ、って言っただろ……」  足を踏み入れた彼の部屋は、大学生の一人暮らしの部屋だとは到底思えないほど広く、家具もやたら高級そうに見えた。キッチンにはコーヒー豆を入れた瓶やサイフォンなどが綺麗に並んでいる。コーヒーが好きなのかもしれない。 「ああいうこと、いつもされてんの」 「……まあ、」  少し迷うように視線を泳がせたあと、春川はそう答えた。 「まあって、」  思わず大きな声が出る。 「なんだよ。いいだろ、他人事なんだし」 「……は?」 「言葉通りの意味だけど」 「で、でも、なんとかしてやめさせたりとか」  オレの言葉を聞いて彼はわざとらしく大きなため息を吐いた。オレはその意味がわからずに言葉を続けられなくなる。 「そういうの迷惑なんだよ」  他人が首突っ込むなよ、と吐き捨てるように深波は言う。 「でも、これ、」  手首の縛られた痕や、服の袖から覗く痣が痛々しい。見えないところにもたくさん傷があるのだろうと思うと、どうしようもなくやるせない気持ちになった。オレはまっすぐに彼を見つめた。 「なんだよ」 「……痛いだろ」 「ふつうに足腰立たなくなるまでセックスくらいするだろ」 「しないだろ。いや、するか? でも、」  でも、そんなボロボロになって放置されるようなそれは、果たしてふつうなのだろうか。 「……でも、なに?」  オレの言葉は伝わらない。唐突にそれを理解して、なんだか投げやりな気持ちになった。だから、言おうとしていた言葉とは違う言葉を選んだ。 「これ、みんなにバレたらまずいよな?」 「……は?」  今度は彼が驚く番だった。オレの言っていることが理解できないという顔をした彼に構わずオレは言葉を続ける。 「オレは春川の弱みを握ったわけだ」 「……は、なに」  おまえって、そういう奴だったの。彼が失望を含んだ視線をこちらに向ける。さぁ、とごまかして笑ってみたらなぜか彼も同じように笑った。 「はは、なるほどな。なにする? 金でも要求する? 俺の親とか周りに言いふらす?」  力が抜けたようにうなだれて、それでも彼は乾いた声で笑い続ける。オレには彼ががっかりしているのか、それともおもしろがっているのかわからなかった。  けれどこれだけはわかる。最低な奴だと思われたのだ。オレはきっと選択肢を間違えた。間違えたけれど、それでも、彼のこころになんらかの刺激を与えたことはたしかだった。 「べつにそんな悪人じゃないよ」 「はっ、どうだか」  金なんか要求しないし、誰かに言いふらしたりだってするつもりはない。そういうことを要求するつもりは毛頭なかった。 「代わりにデートしてよ」  するりとオレの口から出た言葉を解釈するのに時間がかかったらしい。小首を傾げる彼の表情はぐっとくるほど可愛くて、思わず距離を詰めてしまいそうになる。 「……は?」 「遊びに行こうって言ってんの」  デートと遊びに行くっていうのはいったい同義なのかオレもわかりかねるが、もうなんでもいいから一緒にどこかに行きたかった。 「もしかして、こういうことしたいの」  着ている服の裾を抓んで持ち上げて見せる。白い肌が覗いた。 「ち、ちげーよ! そうじゃなくて」 「そうじゃなくて?」 「そんなこと、するわけないだろ」 「は? なにそれ」 「な、なんでちょっとがっかりしてんだよ」 「そう見えた?」  平然とそう言って彼は自分の髪をさわると、「で、けっきょくなにがしたいんだよ」と呆れた顔でこちらを見た。 「なにって……ちゃんと決まってないけどデートっぽいやつだよ」 「だから具体的になに」  元カノのミホと遊園地に行ったり、ボウリングに行ったり、スポーツバーに行って騒いだりしたことを思い出す、が、そのどれもが春川に置き換えるとうまく想像できなかった。
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