春の温度

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 彼の家にはアップライトのピアノが置いてあった。初めて来た日には動揺してよく見る余裕がなかったが、それは随分と立派なものに見えた。埃をかぶっていないから、彼が定期的に弾いているのかもしれない。 「春川ピアノ弾くのか?」 「……たまに」 「オレもちょっと弾けるんだ、だから」  なんか一緒に弾こうよ、そう言ってはみたが、めんどくさいと言われてしまう。キッチンでお湯を沸かしていた彼はなにやら高級そうな缶を取り出して準備を始めた。  しばらくするとコーヒーの香りが漂ってきた。 「なに正座してんだよ」 「いや、ちょっと緊張して」  そう言ってあははと笑うが完全に無視されてしまう。その代わりに無駄のない手つきでオレのまえにコーヒーカップを置いて、コーヒーを注いでくれた。やたら繊細な容器に入った砂糖とミルクも目の前に置かれて恐縮してしまう。触ったらうっかり壊してしまいそうだった。 「お……おお……」  まるで彼のやっているカフェに来たみたいだった。 「なに言ってんだよ」 「す、すごい、ありがとう」 「なにがすごいのかわからないけど、どういたしまして」  ふ、と小さく笑った彼に見とれてなにを話せばいいのかわからなくなる。彼を待っている間に話題をたくさん考えていたはずなのに、焦ってしまう。やっとの思いでここまで来たのだ。またつまらないと言われてしまうのはどうしても避けたかった。とにかく追い出されたくない。 「今日楽しかった。ありがとう」 「俺も楽しかったよ」 「ほんと?!」 「なんでそんなに驚くんだよ」 「だってすごい嫌そうだったら」 「最初は乗り気ではなかったし、つまらなかったら途中で帰ってた」 「……もしかして、オレにも脈ある?」 「さぁ?」  初対面のときとは打って変わった思わせぶりな態度に緊張する。裏がないとは限らないし、ただオレを揶揄いたいかもしれないけれど、それでも、否定されないことがなんだか嬉しかった。 「葉月」  伺い見るような上目遣いにかっと顔が熱くなる。急に強い衝動が自分を襲う。  春川の手がオレの手をなぞるようにすり寄って離れていく。春川の意図的なのかわからない。 「は、るかわ」  春川が好きだ。性欲もある。でも、ここで手を出したらあの男と同じになってしまうし、それに、あんなことをされた春川に、ヤりたいと迫るなんてもってのほかだ。別のことを考えようと、オレは慌てて部屋を見渡した。背の高い本棚には本が几帳面なほど高さとシリーズを揃えてぴったりと並んでいる。その隣の棚には真四角のガラスの水槽があった。 「……あ、あれ、なんで仕切ってあるんだ?」  水槽のなかを仕切りで区切られて泳いでいる赤と青の魚にはペットショップかなにかで見覚えがあった。ふつうの金魚とは違うそれは、たしかベタという品種だった気がする。 「あれオスとオスなんだよ」  水槽に視線を向けた彼が言う。 「オスとオスだとだめなの?」 「喧嘩するから……オスとメスだったら一緒に入れられたんだけど」  買ってきたその日に喧嘩し始めてびっくりしたと彼が言う。店員はオスとメスだって言ったのに、という愚痴にそれは災難だったなと言いながら仕切られた水槽のなかで優雅に泳ぐ二匹を見つめた。隣に仲間がいることを二匹は知っているのだろうか。同じ水槽のなかにいるのに、決して近づけないのは、少し淋しいなと思う。  視線をその隣のピアノに移す。 「ちょっと弾いてみて」 「やだ」 「じゃあオレが弾いてみてもいい?」 「……それならいいけど」  昔少しだけ習っていた。かろうじて覚えている練習曲の簡単なものを弾いてみた。 「下手」 「え、そんなに酷かった?」  オレの問いかけには答えず、彼がすぐ隣にやってきてオレでも知っている有名曲を弾いた。 「これ聴いたことある」 「まあ有名だからな」  彼はしばらく弾いた後、おまえはほかになにか弾けないのか、と言った。 「えっと、これなら弾ける」  バッハのG線上のアリア。左手を忘れてしまって右手だけ弾く。すると、春川が隣にやってきて左手部分を弾き始める。  ありきたりな表現だが、まるで時が止まったみたいだった。小説なんかでよくその表現を見るたびに、そんなの嘘だろうと思っていたがあながち嘘ではないらしい。弾き慣れた曲でもないので次の音を探すのに必死で、何度も音を外してしまった。けれど、この曲が一生終わらなければいいのにとさえ思ってしまった。 「……楽しかったな」 「悪くはなかったな」  ピアノのまえの椅子に座ったまま、オレはまだこの高揚感をうまく消化できないでいた。春川はふう、と息を吐いて、離れた場所にある椅子に腰かける。 「おまえさ、なんで俺のことそんなに好きなの」 「えっ、照れる……」 「真剣に訊いてんだよこっちは」  顔を赤らめるオレに対して少しイライラした表情で彼はそう言う。 「……言っても怒らない?」 「もう怒ってる」 「……」 「言えよ。気になるだろ」 「か、」 「か?」 「顔が好きだから……」 「はぁ? なんだよそれ」  彼が怪訝な顔をする。まあ、あたりまえだろう。 「さ、最初はそれだけだったんだけど、今は性格も好きだし、その落ち着いた声も好き」  なんだかんだ優しいところも好きだし、待ち合わせに来てくれたところも好き、つらつらと好きなところを言い続けているともういいから黙れと言われてしまった。 「……オレのこと嫌いになった?」 「元から嫌いだから変わりはない、安心しろ」 「安心できないんだけど」 「残念だったな」  まあ、がんばれ。彼はそう言ってオレに微笑んで見せた。ちょっと茶目っ気のある感じで、まるでいたずらっ子のような表情に、オレはまたぐっときてしまった。うっかり変な声が出そうになって慌てて口を閉じる。もう、困る。どんどん好きなところが増えていく。 「それも好き」 「なにが?」 「その笑顔、めっちゃ可愛くて好き」 「……」  彼は呆れたような表情をして、その後はもうなにも言わなかった。怒られたわけではないから、もっと攻め込めばよかった。まあ、頑張ったところであの怪訝な表情で対応されるのかと思うとちょっと悲しいけれど。 「……あの人とは、さ、」  訊かないようにしようと思っているのに、ぽろりと口から零れ落ちた。それでもその先の言葉を紡ぐことができない。どんな関係なの、と訊きたいのに、口が上手く動かなかった。 「やめねえよ」  なにを言われるかすぐにピンときたのだろう。オレの想像に反して、彼はきっぱりと言い切った。 「やめられないなら、オレじゃなくても、ほ、他の誰かとか、大人とか、警察とか、相談し、」 「違う」  被せるように彼がぴしりと言った。思わず口を閉じると、一歩、また一歩と近づいてくる。つられるようにしてオレも後ずさりをする。  そっと、手の甲の上に手のひらを重ねられた。おおげさなくらいに反応してしまう。 「なんか勘違いしてるようだけど」  顔の向きは動かせなくて、視線だけを彼に向ける。ぐっと彼の顔が近づいて、息を呑む。 「あれ、合意だから」  囁くように、でもはっきりとそう言った。
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