春の温度

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 オレは驚いた。てっきり、無理やりだとか、なにか弱みを握られているだとか、そういう理由であんなことになっているのだと思っていたのだ。だって、オレが駆けつけたとき、彼の肩には歯型があって、手首には縛られた跡があって、首元は赤くなっていた。 「なあ、」 「……」  あの男がいなくなったらさ、纏わりつくような声で彼が言う。 「おまえが代わりにやってくれんの」 「……」  彼の口角が綺麗に上がる。冷たい視線がオレの輪郭をなぞる。一ミリたりとも動けない。 「葉月」 「や、やめろ」 「やめねえよ」  冷や汗が止まらない。なのに、身体自体は熱くなっていく。 「俺のこと、好きなんだろ?」  つくりものみたいな、綺麗で、それでいて不自然な表情で彼はにこりと笑った。 「好きってそういう意味なんだよな?」 「ち、ちが、わないけど」  距離を詰められるとどうしたらいいのかわからなくなる。肩に乗った彼の手のひらの感触に、まるでそこが心臓になってしまったかのようにどくどくと脈打って血が流れる。 「する?」  肩に乗せられた手がゆっくりと首元を伝い、その指先が頬に到達する。彼の手のひらはさして冷たくないはずなのに、オレの顔が熱くなっているせいでひんやりと感じた。 「ねえ」 「オ、レは」  溺れるみたいに息ができなくなっていく。部屋から酸素が消えてしまったみたいだった。 「なにかしてやろうか、なにが良い」 「い、いいから、」 「無理しなくていいよ、本当は考えてたんだろ」 「な、」 「ほら、言ってみて」  俺に言ってみてよ、本能のままにさ。彼はそう言って口角を持ち上げた。真剣に言っているのか、それともふざけているのか、判断ができるほどオレは春川のことを知らなかった。 「なんでもしてやるよ。過激なのでもいいよ」  俺そういうのが好きなんだよね。そう言う彼の表情は無理をしているようにも見えたし、 「なあ、やろうよ。一度でも俺を抱きたいって思ったことがあるのなら、」  そっと唇を重ねられる。あっけにとられている間に角度を変えられ、そのまま舌が入り込んでくる。オレは嬉しいのか悲しいのかもわからないままただ翻弄されるだけで、息を吸うことで精一杯だった。 「……っ、」 「悪いのは俺だよ、俺がおまえを誘ったんだ」  だろ、と彼の指先がオレの首から頬をなぞる。オレをその気にさせるための動きに、オレは彼の期待以上に反応してしまう。 「全部俺のせいにすればいいよ」  俺の肌の上を彼の指先が這うように撫でていく。混乱しながらも、彼の言葉通りに今のこの感情に身を任せたい気持ちが強くなる。彼の言葉は甘く、そして、けっきょく魅力的だった。 「オレのこと、すき、なの……?」  やっと絞り出した言葉は、ひどく子供じみていた。馬鹿みたいだ。  オレは春川を抱きたかった。どうしようもなく、素直に身体は反応していた。でもここで手を伸ばしたら、彼のこころは一生手に入らない気がした。彼のこころに近づく手段はこれじゃないと思った。あの先輩と同じことをしてどうするんだと自分に言い聞かせる。だから、彼の挑発には、乗らない。  視線が絡み合った。しばらくして、彼がぽつりと言う。 「……あーあ、なんか萎えたわ」  そして、はらりと離れていく。その指先も、身体も、その温度も。 「春川」  背を向けた彼がどんな顔をしているのか、わからなかった。 「……俺のこと、几帳面だっていったよな」  昔からちゃんとしてたんだよ俺は、と深波が言う。ぴしりとした襟つきのワイシャツ、寝癖なんてないさらさらのまっすぐな髪、そして、物がきちんと整理整頓されたこの部屋。誰だって、そう思うだろう。 「でも、それを壊すときが一番気持ちいいって気づいたんだ」  深波はまっすぐにオレを見つめて言う。めちゃくちゃにされると、興奮するんだよ。その声色は、彼が彼自身に怯えているようにも聞こえた。 「……」 「小学生のころ、綺麗に並べられた部屋の本棚とか全部、倒して部屋をめちゃくちゃにしたことがあってさ。両親が得体のしれないものを見る目をしてたよ」  今のおまえの顔みたいだったな、と諦めたような顔で笑みをつくった彼が言う。なんて言えばいいのかわからなかった。 「春川」 「帰る?」 「……とにかく、今おまえとこんなことしたくない」 「どうして」  混乱していた。オレが思い込みをしていただけで、オレは最初からずっと春川のことをなにもわかっていなかったのだ。  あんなに忌み嫌っていた先輩と同じようになりたいわけではない。たとえ、それで彼に近づけるのだとしても。 「だって、深波、オレのことまだ好きじゃないだろ」 「好きだよ、って言ったら?」 「……」  オレが答えないでいると、もういいよ、と大きなため息を吐いた。 「……でも、」 「おまえ、やっぱなんか気持ち悪いよ」  同じ空間にいるのに、薄い壁があるような感じがする。どうしたら彼にもっと近づけるのだろうか、オレはそればっかり考えている。物理的に隣にいたって、彼は遠い存在に思えた。まるで水槽のなかを仕切られて泳いでいるベタみたいに、同じ場所にいてもこころは決して交わらない。 「……あ、オ、オレ、妹に牛乳買ってこいって言われてんだよ」 「は? なにそれ」 「とにかく牛乳買って帰るから、じゃあな」  オレは逃げるようにして家に帰った。ずるい奴だ、オレは。けっきょく逃げているだけなのだ。言われなくてもわかる。
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