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窓の外の新緑が陽の光を反射してきらきらと輝く。暑くも寒くもないちょうどいい気温の大教室内で、オレはあくびを噛み殺す。昼下がりの三限、いわゆる五月病と言われるそれにかかってしまったのか、教室にいる学生の数は先月よりもぐっと減っていた。
大学の講義はいつも退屈だ。家が近いからという理由だけで志望した難関私大に運良く滑り込んでしまったオレは、講義内容にいまいちついていけないまま、二年生になってしまった。オレの大学の生活を占めているのは趣味でもあるバドミントンサークルとファミレスのバイト、そして少しの恋愛。
「『私、葉月と別れたい』か……」
ペンケースの影にスマホを移動させ、中世の哲学思想を淡々と語る教授から見えないようにしてから、画面を覗き込む。そこには彼女のミホからの言葉が並んでいる。
オレは『あとで電話する』と送って画面を消し、ため息を吐いた。
また長続きしなかった。
今回は四ヶ月、前回と同じくらいだろうか。ホワイトボードにお世辞にも綺麗とは言えない字を書き連ねる教授をぼんやりと眺めながら、小さく息を吐く。彼女と長続きしないのがオレのここ数年の悩みだ。
あ、この子、性格いいなと思う。話していて楽しい。この子とつき合いたいかも。けれどけっきょく、見た目が好きになれないとこちらも本気になれないのだ。
「……もしかして、オレってすげえ最低な奴?」
周りに人がいなくて本当によかった。思わず口に出た言葉に気づいた人はどうやらいないようだった。オレはこころのなかで、次こそ顔の好きな彼女をつくろうと決意する。
オレが今までにぐっときた人は十年以上まえにテレビで見た女の子か、中学のときに出かけた先で見た女の子くらいだ。つまりそのくらいの頻度でしか現れないというわけで、けっこう厳しい状況なのかもしれない。どちらもその後に関係がどうこうなれるものではなかった。次の出会いに期待したいところだ。そしてほかのことが考えられなくなるような本気の恋をして、あわよくばつきあいたい。
探せば見つかるはず、オレはそう信じている。そう、ちょうどあの子みたいな……とまで考えてオレは目を見開いた。
視線の先、斜め前の席に美しい横顔。白い肌に、すっとした鼻筋、そして芯の強さが伺える綺麗な瞳がオレを惹きつけて離さなかった。
「……」
思わず呆然としてしまう。茫然としすぎて講義が終わっていたことに気づかなかったくらいだ。
眺めていたその人が席を立って、オレは焦る。使う場面が間違っているかもしれないが、やらないで後悔するよりはやって後悔しろというのが父さんの教えだ。オレは立ち上がる。
「あのっ、」
肩をたたくと、その人は視線だけをこちらに向けて小さな声で「なに」と言った。その声の低さに、少し驚く。
「あれ、男の子だった」
「俺は男だよ」
ボタンを一番上までとめた細身のシャツを着て、黒いスキニーを穿いた彼は、たしかに線は細いが背は高そうだった。オレより一〇センチほど低いくらいだ。オレの身長が一八〇センチなので、一七〇センチくらいだろうか。
「まあ、それでもいいや」
「……なんだよ」
最初から失礼な奴だな、と怪訝な顔をする彼はあたりまえのようにオレの発言に気分を害したらしく、またオレは焦る。
「た、たしかに! 悪い!」
ここで逃したら次に見た目が好みの奴に出会えるのはたぶん十数年後だ。根拠はないが謎の思考に強く支配されたオレの頭は、たぶんもうおかしくなっている。実際、目の前の彼は頭のおかしい奴を見るような目でオレを見ていた。
恋愛に男も女もない。けれど、顔の好みはある。温厚だとか、テキトーだとか称されることの多いオレだが、ここだけは強く主張したい。
「で、なに?」
「いや、なんか、友達になりたくて」
顔が好きで、とはもちろん言えなかった。うっかり言ってしまわなかったことに安心する一方で、目の前の男はオレの発言に明らかに引いていた。頭にはてなマークを浮かべたままフリーズしている。
「トモダチ?」
「そう、友達」
妙な沈黙につつまれる。彼は静かな瞳でオレの顔を見つめていた。このあと予定があったりしないだろうか。引き留めてしまっていることに罪悪感を覚えながらも、引き留めておきたいという感情が強くなっていく。
もしかしたら友達になろうだなんて今どき幼稚園児でも言わないのかもしれない。オレは今さらながらも、もっと良い言い方があったんじゃないかと不安になる。いや、たぶん、絶対あった。
「いいよ」
そう言われて喜ぶ前に、その人はじゃあねと言って立ち去ろうとする。オレは慌ててその細い肩をつかんだ。
「ま、まって」
「なに」
「オレは水原葉月」
き、君の名前は、とちょっとふるえた声で言えば「はるかわみなみ」と返ってくる。
「春の川に、深い波」
反射的に優しくて暖かい印象のある、美しい名前だと思った。落ち着いていて冷たい視線とのギャップがさらに良い。
「いい名前だな」
「どうも、じゃあね」
また去っていこうとする彼をオレは慌てて再度引き留める。今度は明らかに嫌そうな顔をされた。
「まだなんかあるのか?」
明らかに疲れたような顔をしていた。原因はきっと昨日からの疲れとかであって、オレじゃないと信じたい。
「よかったら連絡先とか」
「スマホなくしたから無理」
「そうなのか?」
一緒に探そうか。いつからないんだ? と身を乗り出して言うと、彼は変な奴を見る目でオレを見て後ずさりをする。
「……大丈夫だからほっといてくれ」
そう言ってふいと顔を背けてあっさりと去っていく。その後姿をオレは茫然と眺めていた。名前だけは聞けたことに安堵した。
胸が高鳴っている。
そうだよこれこれ、恋っていうのはきっとこういうものなんだ。どんなことを言われようが、抗えないくらい顔が好き。オレは彼を思い出しながら一人で思わずうっとりとしてしまう。怪訝な顔ばかりさせてしまったが、その表情さえもオレにとってはぐっとくる要素でしかなかった。思わず笑みが零れてしまう。やっぱり性別なんて関係ない、そう思った。
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