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*おすすめのコーヒー
純喫茶を思わせる木製の扉を押し開けると、カランと小気味よくドアベルが鳴る。恐る恐る中をのぞき込むと、外観の印象を裏切らない良い喫茶店といった造りだった。左手には座り心地の良さそうなソファー席、右手には高椅子のカウンターが配され、奥に長い作りのようだ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中でカップを磨いていた青年が、ドアベルの音に気づいて声をかけてくれる。マスターだろうか。白いシャツに黒のベストという出で立ちだ。見た目の若さよりも落ち着いた、高くもなく低すぎもしない声がお店の雰囲気にとてもよく合っている。彼以外の人は見当たらない。私は意を決して店内へ一歩踏み入れた。
「お一人様ですか? よろしければ、カウンターへどうぞ」
入ってきたドアを後ろ手に閉めると、青年が爽やかな笑顔で案内してくれる。私はその声に従って、カウンター席の一番奥に腰掛けた。席に着くと、水の入ったグラスと共に青年が近くへ寄ってきて、一瞬驚くように目を見開く。
「おや、お客様は……」
何かを言いかけていったん口をつぐんだ。数秒考え込むようにしていたが、すぐ元の笑顔に戻って続ける。
「お客様、当店は初めてでいらっしゃいますね?」
「はい。途中で光る足跡を見つけて、たどってきたらここにつきまして……」
私はここまでの経緯をざっくり、本当にざっくりと伝える。いつもの私なら、冷静に考え直してそんな意味不明なことは言わなかっただろうと思う。しかし残業終わりでへとへとになっていた私に、そんなところを気にする余裕はなかった。それに、私の答えを聞いた青年はそれを全く疑問にすることもなく、あっさりと納得してしまっていた。
「そうですか。それはそれは、ようこそお越しくださいました。当店は夜半喫茶、宵闇。その名のごとく、夜中に営業する喫茶店です。メニューは私のおすすめのみですが、よろしいでしょうか?」
静かに、しかしよく通る声でそう告げる。
「あ、はい。おねがい、します」
こんな時間にこんな素敵な喫茶店に入るなんてことはもちろん初めてなので、妙に、少し、緊張してしまう。
「かしこまりました。少々お待ちください」
そう言うと青年はカウンターの向こうでカップやソーサーを手際よく用意していく。静かな店内でポコポコとお湯が沸騰する音が、無性に心地よかった。
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