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本編・第三節 謀略の壁
それは、いつもの祈りが終わり、自室へ向かっていたときのことだった。
「エリス様、どうか、どうか、お助けください……っ」
「どうしたのルゥ? 何があったの?」
わたしの御付きの中で、もっとも気心が知れているのが彼女だった。もう、四年の付き合いになるだろうか。心根はやさしく、一生懸命で、彼女の頼みなら、なんだって聞いてあげられるものだった。もちろん、誰の頼みでもわたしは首を縦に振るだろうけど、ルゥはその中でも特別だった。
「流行り病のことは、ご存知ですか?」
「ええ、知ってるわ。それが、どうしたの?」
民がどのくらい健康かというのは、祈りを通じて、ある程度把握することができる。たしかに、民の間で、ある病が流行っているようだった。けれど、それは一言で言えば風邪だった。何の心配もいらない。気に病むだけ、気の毒というものだった。
「もう、何人も人が死んでいるのです……。それに、日ごとに感染している者が増えていて……。近しい者が倒れてしまうかと思うと、私は、恐ろしくてたまりません……」
「落ち着いて、ルゥ。あなたの言う通り、たしかに、病気にかかっている者はいる。でも、同時に病気から快復している者もいるのよ」
「え……? それは……たしかに……そう、ですね……」
「それに、その病が直接の原因で、どれくらいの人が死んだというの? どれくらいの人が実際に苦しんでいるの? 年間の死者数は、昨年と比べて増えているの?」
「えっと……すみません……分からないです……」
「ルゥ。良く聞いて。知らないから、あなたは恐がっているの。まずは情報を集めなさい。できるなら、その裏付けを取りなさい。それから、理性的な判断を下すの。感情に惑わされてはいけないわ」
「は、はいっ。分かりました……」
でも……ルゥのように恐がっている人がいるのなら、大々的なパフォーマンスをするのも有りかも知れない。もちろん、礼拝堂での祈りの力でも、十分に病にはたらきかけることができる。けれど、皆の前で病気を消滅させ、『流行り病とは何でもない』ことを周知させた方が、民は安心すると思えた。思い立ったが吉日。わたしは、大司教様のところへ相談に伺った。
「――という状況ですので、わたしが奇蹟の力を示せば、民は皆安心するかと思います」
「そうですか……。報告、御苦労様です。良く分かりました」
「では……」
「ですが、エリス殿。聖女である貴女の手を煩わせるほどのことではないでしょう」
――は?
「薬の開発も急がれています。安易に奇蹟に頼ってはいけません。その力は、ここぞという時に使うものですよ」
余計なお世話とは、正にこのことだった。
「お言葉ですが……大司教様。その、ここぞという時が、今なのだとわたしは考えています。これ以上民が混乱しないよう、病に打ち克つ策があると示すことは、民の行末を善き方向に導くために、必要と言えるのではないでしょうか」
「しかし、ですね。聖女がみだりに政治に関わるのはいけません」
「……」
「……」
「……大司教様。ご覧になって分かりませんか? わたしは今、手が空いているのです。わたしができることをやろうとしていることの、何がいけないのですか!」
部屋が、しんと静まり返った。
「……ふぅ。仕方がありませんね。治療を許可しましょう」
「大司教様……」
やはり、話せば分かってくださる方だった。
「ただし、治療の様子は、誰にも見せてはなりません。また、患者が治療について口外することも禁じます」
「な……」
それでは、何の意味もない。
「大司教様!」
「エリス殿。分かってくださいませんか? これは、私の意見ではありません。教会の総意なのですよ」
「教会の……?」
「はい。ですから、ここで貴女が何を仰ろうと、大した意味はないのですよ」
「……」
「分かっていただけましたか? ここは、どうかお引き取りを」
どうして……どうして教会は、民にとって益になることを妨げるのだろうか……。教会というのは、人を善き方向へ導くためのものではなかったのか……。
わたしは、この件をきっかけに、国の闇に深く踏み込むことになるのだった……。
――――
「こんな感じかしら……」
筆をしまい、本を閉じた。
ウォルデンまで、あと、どのくらい歩けば良いのだろう。到着までに、なけなしの食糧が保つのだろうか? ……それでも、歩かなければ進まない。わたしは立ち上がった。膝の傷は、かさぶたになりつつある。
安易に奇蹟に頼ってはいけない――。そう。本当に余計なお世話なのだ。それは、わたしが誰よりも忠実に守っていたのだから。奇蹟の使い手である、わたしが。
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