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本編・第五節 宣撫の秘訣
丘の上に来ていた。隣国の姿は、いまだ見えない。わたしは腰を下ろして、水分が抜けてすっかり固くなったパンを、ちびちびと食べ始めた。思えば、これほどひもじい思いをするのは、初めてのことだった。毎日の食事は、質素だった。それでも、食べられないということはなかった。わたしは、恵まれていたのだ……。
チチッ
小鳥たちが、すぐそばに留まった。自慢ではないけれど、わたしは、なぜか動物に好かれやすかった。聖女の特質なのだろうか? ああ、今はもう聖女じゃなかったっけ……。
野生の動物に対して、人間の食べ物をやってもいいものか判断に迷う。わたしはパンをしまい、代わりに本と筆を取り出した。小鳥たちが飛んでいく気配はない。そのまま、筆を滑らせた。
――――
わたしは、久しぶりにルゥを困らせていた。
「ねぇ、お願い。何とかならないかしら?」
「エリス様……そう言われましても……」
「ルゥ。そこを何とか」
「新聞などという、俗世間の物に聖女が触れると知られればどうなるか……どうか、どうか御自重ください」
「でも、ルゥは毎日読んでいるのでしょう?」
「そ、それは……そうですけれど……」
「ね? お願い。一度だけで良いの。今回切りだから」
以前、ルゥは流行り病が恐いと言っていた。もしかしたら、その原因が、民が毎日読んでいるという新聞にあるのではないかと、わたしは感じていた。
「……エリス様は、本当に良く公務に励んでいらっしゃいます。その中で、心身に相当な御負担を抱えられていることでしょう。その御負担が、少しでも軽くなると仰るなら……このルゥ、その任を謹んでお受けさせていただきます」
「ルゥ……ありがとう」
「……私も、本当は、嬉しいのです。エリス様は、わがままを滅多に仰る方ではありませんから……エリス様に頼っていただけて、悪い気はしないのです。ただ、その……新聞を読んで面白いと感じていただけるかどうかは、分かりかねますが……」
翌日、わたしたちは、自室で新聞を広げていた。念を入れて、部屋の鍵は掛けてあった。
「へぇ、これが新聞なのね」
「はい。たくさんの情報が書かれていて、国の内外の実情を知るには、うってつけかと」
わたしは、新聞を読んだ。何かおかしいな、とは思いつつ、読み進めていき――やがて、その違和感の正体にたどり着いたのだった。
「ねぇ、ルゥ……。これ、おかしくない?」
「えっと……感染者が爆発的に増えていること、ですか? これは事実ですよね? 何もおかしくはないと思いますけれど……」
「前も言ったと思うけれど、病から治っている人もいるはずでしょ? でも、これはそういうことを無視して、累積という言葉を持ち出してまで、ことさらに不安を煽っている」
「それは……たしかに……」
「それに、こっちを見て」
「これは……病の広がりを防ぐために、仮面を付けるべき、というものですね。飛沫が飛ばないようにする、というのは、とても合理的なように見えますが……」
「でも……本当にそうなのかしら?」
「え?」
「この新聞のどの記事にもね、反対の意見が書いていないのよ。仮面の効果がないと言う人も、悪影響があると指摘するコメントも、何もない。仮面を付けることで呼吸がしづらくなるとか、頭が痛くなるとか、表情が読み取りにくくてコミュニケーションしづらくなるとか、そもそも感染防止には役立たないとか、そういう反対意見をすべて置き去りにしている。これはね、情報を語ることで、他の情報を隠蔽しているの」
「――」
加えて言えば、病の本質については、何も触れられていなかった。
「ねぇ、ルゥ。わたしはね、何か物事を決めるときには、いろんな視点からの意見が必要だと思うの。その意見を否定せずに、一つ一つ良く考えて、どれかを選んだり、折衷案を作ったりする。そうしないと、幸せな場所には、たどり着けないと思うから……」
「仰る、通りです……」
「そのことを考えるとね、この新聞が――いいえ、国が民をどう導きたいのか……それが透けて見えてくるというものね……」
――――
支配者にとって、もっとも大切なことは何か?
家庭教師の問いに、俺は頭を悩ませた。リーダーシップ? 民を大切に思う心? 国庫の管理能力? 心理学? ――そのどれもが不正解だった。正解は――民に与える情報を制御すること、だった。まったく思いもよらないことだった。しかし、よくよく考えてみれば、当然のことなのだ。自分の意のままに政治を動かすためには、その意に従順な民を用意すれば良い。それだけのことなのだ。
情報を統制する能力。その力を磨き、俺は今、次期国王たる王子としてここにいる――。
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