本編・第九節 天界はいまだ遠く

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本編・第九節 天界はいまだ遠く

「ん……」  ここは……どこだろう。清潔な部屋だった。窓の向こうには、青空と花畑が広がっている。そよと風がカーテンを揺らした。  わたしは……死んだのだろうか。死んだにしては……えらく現実的だ。死後の世界で気が付いてみれば、左腕に点滴が打ってある。そんなことがあるだろうか? 「しょ……」  身体を起こした。声は出る。喉が酷く乾いていた。  枕元のテーブルの上に、水の入ったグラスが置いてあった。グラスを持つ手が震えていた。まずい、と思ったときには、遅かった。  カシャァン!  ドタドタという足音が聞こえ、どんどん大きくなってくる。  やがて扉の向こうに現れたのは、一人の青年だった。 「良かった……。お目覚めになられたのですね」 「えっ、と……」 「! お水ですね。すぐにご用意いたします」  青年は予備のグラスを取り出し、水を注いでくれた。 「持てますか?」 「はい……。今度は気を付けます」 「どうぞ」 「…………んっ…………はぁ……」  穏やかな空間だった。今までのことが嘘だったみたいに……。でも、それは嘘ではないのだろう。 「ありがとうございます。行き倒れていたわたしを、助けていただいたのですね?」 「はい。申し遅れました、私はウォルデン国第一王子、ミゲル・ディルバートと申します」 「そう。王子様でいらっしゃいましたか……」 「おや、あまり驚かれませんね」 「いえ……王子というものに、多少、縁がありますので……。こちらも申し遅れました。エリス・ジーンと申します。隣国の聖女を……務めておりました」 「なんと、聖女様でいらっしゃいましたか」 「……あまり、驚かれていないようですね」 「一目見たときから分かりましたよ。それに、パンが石に変わるのを見まして……」 「それは……お恥ずかしい限りです」 「とんでもありません。餓えに打ち克つなど、到底できることではありませんよ……」  窓からか、蝶がひらひらと迷い込んできた。 「失礼ながら……」 「はい?」 「貴女(あなた)の手記を読ませていただきました」 「そう、ですか……」 「私も人の上に立つ者として……いたく感じ入るところがありました。そして、思ったのです。これは、もっとたくさんの人に読んでもらうべきだ、と」 「そう言っていただけると……書いた甲斐があるというものですね」 「エリス様……。こちらを、聖女の手記として出版しませんか?」 「え?」 「我が国の民にも。そして、エリス様の国の民にも、広く読んでもらえるように。もちろん、すべての費用や手続きは、私が責任を持ちます」  それが、民を善き方向へ導くなら……願ってもないことだった。 「一つ、条件、というか、お願いが」 「何なりと」 「出版の手続きは、わたしに任せてくださいませんか? きっと……それが良いと思うのです」 「承知しました。では、エリス様にお任せいたします」 「ありがとうございます」 「お目覚めのところ、長々とすみません。今日は、こちらで失礼させていただきます。貴女は、十分に苦労された。こちらで心ゆくまで、ゆっくりと休んでください」 「はい、この御恩はいずれ」 「とんでもありません」  青年――ミゲル様は、礼のあとに退室された。 「んー……っ」  伸びをした。  どうやら、神様は、わたしにまだ生きろと仰っているようだった。  それなら、できることをしよう。民のために、わたしができることを――。
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