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マヨヒガ
「トイレに行きたいんだけど」
炭を熾していた手を止め振り返ると、ミカが眉根を寄せた表情でこちらを見ていた。
俺は辺りに視線を走らせてから、
「その辺ですればいいよ」
「イヤよ。丸見えじゃない」
「誰も見てないだろ」
「あなたには見えるでしょ」
「だったら、あっちのほうの森の中へでも行けば」
川原の向こう側にある茂みを指差した。彼女はしばらく逡巡してから、渋々という風にそちらへと歩き出す。
キャンプへ行きたいと言い出したのは彼女のほうだ。流行っているからという単純な理由だった。
週末ともなれば主なキャンプ場はにわかのキャンパーでいっぱいだった。そんな状況でキャンプしたって街なかにいるのと殆ど変わりがない。ミカはそれでいいと言ったが、俺は納得がいかなかった。どうせやるなら本格的なものにしたい。だからあえて人の手が入っていない場所を探すことにしたのだ。県の中部を流れる一級河川沿いを延々と遡り、ようやく見つけたのがこの場所だ。鬱蒼とした木々に囲まれているせいで見落とされるのだろう。川原は広くはないが俺たちだけがキャンプをするならじゅうぶんだ。さらさらと流れる川の音が心地いい。ただ車を止められる場所から少し歩かなければならないのが難点だが。
炭が赤々と燃え出したころ、ミカの声が聞こえた。
「ねぇ、タケル。ちょっと来て」
見れば茂みから顔を覗かせた彼女が手招きしている。
「なんだよ?」
「家があるのよ」
「家?こんなところにあるわけないだろ」
言いながらも俺はミカのほうへと歩みを進める。彼女は俺が近づくのを待って、森の中へと足を踏み入れた。
「すごく大きな家なの。田舎の農家って感じの」
ミカによると、その家には大きな門があり、庭には花が咲き乱れ、馬小屋や鶏小屋もあるらしいのだが、人の気配がまったくしないらしい。
しばらく進むうち、ミカが「あれ?」と言って足を止めた。
「どうした?」
「おかしいわ。もう着いてもいいころなんだけど」
「道、間違えたんじゃないのか?」
「そんなことない。あ、ほら」
彼女が数センチ先の地面を指差した。少しぬかるんだそこに、くっきりと足跡が残されていた。
「これ見て。私のと同じ靴でしょ」
靴底をこちらに見せる。その模様は確かに足跡と同じだ。それなら彼女がここまで来たことに間違いはないのだろう。ところが件の家はない。ということは、俺を担ごうとでもしたのか。
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