祝盃

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祝盃

 眼下に広がる光景に思わず声を上げた。  泥だらけでも構うものか。 「本当だ。本当だ。本にあるとおりだ」  それは空中を泳ぐ魚の群れ。  何千匹という魚が一塊となり、キラキラときらめきながら上へ下へと、右に左にと舞う。  その幻想的な光景の正体は実は蝶の大群。  蝶の羽の模様が魚に見えるのだ。 『空を舞う魚の群れが勝者である汝を祝福するだろう』  俺はしばらく狂ったように笑った。  俺はやってのけたのだ。  100年間誰も到達できなかった場所にたどりついたのだ。  魚の群れの先にあるもの。 『勝利者のみに用意された宴である』  それは大きな葡萄だ。  ひとつの実が人の体の半分ほどもある葡萄の房が垂れ下がっている。  そこから甘い薫がただよってくる。  数千という蝶の群れはこれが原因だと考えられる。 『自らの勝利を祝しその実をほおばるがいい』  俺にはその権利がある。  俺は大きな実にかぶりついた。 『その味は世界最高峰の美酒ワンダロッサを超えている』  見た目から葡萄の味を想像するがそれは果実ではなく、酒だ。上質な果実酒をゼリー状にしたような舌触り、一噛みで口の全細胞に染み渡り浸透していく。喉を滑り落ちて行く。 『世界各国を旅し、あらゆるものを食したロイス・ルイスのグルメの中でも間違いなく最高の一品』  世界の奥地には恐るべき美食が隠れている。 伝統を受け継ぎ技術を磨いてきた人々がつくり出すものよりも、自然がつくり出すものの方がはるかに上回ることが時にある。  俺も辺境の地で散々食ったが、ロイス・ルイスのいう通りだ。 これはその最高峰。  俺は無我夢中でその実を喰った。  やがて食感が違うものに行きつく。  種か。  俺はやっと一息つく。  手で唇をふく。呼吸さえ忘れて食っていた気がする。  落ち着こう。実はたくさんある。しかも俺の一人占めだ。  俺は地面にしゃがみ込む。  あれだけ大変な思いをして到達したというのに、その喜びで休むことを忘れていた。  改めて状況を眺める。  空を縦横無尽に泳ぐ魚の群れ。  一粒が人の体の半分ほどもある大きな葡萄の実。  何度この記述を読んだことか。  何度その光景を思い浮かべたことか。  本当にそこに俺はいるのだ。
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