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§1
雨は嫌いだ。
いや、悪いのは雨じゃない。雨をきっかけに昔のことを思い出して憂鬱になるのが嫌いだ。このままずっと世界が沈むまで降り続いてしまえ、と投げやりに思う自分が嫌いだ。
この世界に自分の席は用意されていない。そんな不安を抱えた無力な子供に戻ってしまったような気分にさせられる雨の日が嫌いだ。
――雨は四十日四十夜、地に降り注いだ。
創世記、第七章十二節。ノアの方舟の物語。
伝説の洪水は、このビジネスホテルの地上五階の窓までも届いただろうか。
「ずいぶんと若い兄ちゃんだなー。学生か?」
無遠慮な声に、僕の意識は旧約聖書に描かれた太古の洪水の伝説から、秋雨の降りしきる現代の日本へと引き戻された。
実年齢より幼く見られることには慣れている。母親譲りの人形みたいな顔立ちのせいだろう。細くて癖のない栗色の髪を短くするとまるで中学生のようになってしまうので、今は鎖骨のあたりまで伸ばしている。ところが華奢な体格が災いして、今度は女性に間違われる始末だ。アメリカでも、男子トイレに入るとぎょっとされることがよくあった。
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