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2nd Plot~今は亡き貴方への夜想画(ノクターン)~
それは、穏やかで緩やかな時間の流れる、午後の事。
カウンターに片肘を付きながら、うつらうつらとしている時の事でした。
「…………おい」
「…………」
「おい」
「…………すやぁ…」
「…おい」
「むにゃむにゃ…にゃむ…」
「おい。
司書の…あー…ミツキさん?」
…………………………………………はっ!
「はっ、はいっ!
眠ってませんっ!まだ眠ってませんよっ!」
突然声を掛けられ、はっと目を覚ますと、目の前には訝し気な顔をする利用者さんが立っていました。
り、利用者さんにうつらうつらしている所を見られてしまいました…あああ…恥ずかしさで顔が熱いです…!
「…あんたらみたいなのでも寝ぼける事はあるんだな」
「あ、は、はい…お恥ずかしい所をお見せしてしまいました…」
「…いや、まぁ良いんだけどな」
女の子はふっと口角を上げ、ニヒルに笑いました。
小麦色の肌、金色に染め…ていますが、頭のてっぺんに黒い地毛が見える長髪。
背丈と顔付きからして、十五、六歳の女の子。
遺言書庫で使えるアバターは、現実の自分の姿形をそのままそっくり反映させた物と、提携している外部サイトやショップでの配布、購入出来るアバターの、計二種類。
女の子のその姿が現実の姿なのか、はたまた配布、購入した物かは分かりませんが…活発な印象を与える姿でした。
…けれど、女の子の表情は、その姿とはかけ離れた、険しく、悲しそうな表情で。
「…………えと、どういったご用件でしょうか?」
「…………ここに瑠羽(るう)が作った絵が売られたって聞いた。
その絵を買い取りたいんだ」
ええと…絵の買い取り…つまり…。
「【想起】に関するご相談…ですね?
それではパーソナルIDをご提示下さい」
「パーソナルID?…ああ、会員証か。
…あたし会員証作っていないんだけれど…」
「あ、いえ、えと、遺言書庫には会員証はありません。
ここでは国が発行している二十桁の個人番号、それが会員証代わりになるんです」
「…………オーケイ、ちょっと待ってくれ」
女の子は一瞬だけ目を見開き、しぶしぶといった表情をしながら空中を指で叩くと、指をふいっと横にスライドします。
すると私の目の前に、今女の子が転送してくれた画面が表示されました。
…この話をすると、初めて遺言書庫を利用する利用者さんに驚かれる事があります。
中には渋る利用者さんもいらっしゃる程で、女の子の様にしぶしぶでもすぐに見せて下さる方は稀なのです。
国が発行している個人番号は、言わば自分を公的に証明する為の番号です。
みだりに他の人には絶対に教えてはいけないと幼少の頃から教えられているらしいですし、それこそ官公庁や病院ぐらいでしか使用しないと聞いた事があります。
しかしここに保管されているデータには遺言書庫のセキュリティありきの機密情報もあります。
その為、遺言書庫は個人番号…パーソナルIDにアクセス出来る権限を、国から与えられているのです。
私の目の前に現れたのは、女の子が入力したパーソナルIDから導き出された、国が管理している女の子の情報。
…うん、遺言書庫の利用に支障をきたす犯罪歴は無し…と。
「ええと…立華 玻菜(たちばな はな)さんですね。確認が取れました。
…はい、貴方のパーソナルIDに遺言書庫の機能にアクセスする権限を付与しました。これで【想起】へのアクセスが出来ますよ」
「…良かった…」
そう告げると、女の子…玻菜さんは、少しだけほっとした様に表情を緩めると、胸元をぎゅっと握りしめ、そう呟きました。
「おそらく玻菜さんのご希望は【想起】だと思われますが…【想起】のご説明をしますか?」
「…そんなに面倒なのか?その…【想起】っていうシステムは」
「面倒…というより、金銭の授受が発生するので、いつも初めて【想起】をご利用される方には必ずご説明しているんです。
…ええと、【想起】ではご希望の内容を元に私達がいくつかデータをピックアップし、それを玻菜さんにお見せします。
ただ、お見せするデータは全体のごく一部です。
もし玻菜さんがその中で創作を行いたいデータがありましたら、そのデータを作った作者が生前、もしくは作者の親族が設定した金額をお支払い頂きます。
頂いた金銭は三分の二を作者が生前、もしくは作者の親族が設定した口座に振り込み、残り三分の一を遺言書庫の維持や修繕に使用します。
その手続きが終了次第データをお渡ししますので、後は何なりと創作活動に励んで頂ければと思います。
…以上が【想起】のご説明になりますが、いかがでしょう?」
「ああ、なんとなく分かった。
そもそもあたしの目的は瑠羽の絵だけだ、それ以外に興味は無い」
胸元をぎゅっと握りしめる玻菜さんの顔が、また険しくなりました。
どうやら何か、訳ありの様です。
「それで、ええと、玻菜さんが閲覧したい【想起】なんですが、詳細情報を教えて頂けますか?
例えば作者さんのフルネームや、作品のタイトルとか…」
「…ああ、そっか。それもそうだな。
作者は星名 瑠羽(ほしな るう)。
作品のタイトルは…分からない。
とにかくあるだけ見せて欲しい」
「…星名 瑠羽さん…分かりました」
作者さんだけでも分かれば上々です。
ええと、星名 瑠羽、星名 瑠羽…………あ。
「作者名、星名 瑠羽さんで数件ヒットしました。
絵画の下書き数枚と絵画作成の為のアイデアテキスト、それとスケッチブックが一冊分ですね」
「本当か!?本当なんだな!?」
「あ、は、はいっ、間違いありませんっ。
えと、登録司書は司書ムク、半年前に登録した事になっています」
「…あいつら…本当に…本当に売りやがった…ッ!
くそ…畜生…畜生ぉ……ッ!
頼むッ!全部ッ!全部売ってくれッ!」
「あ、は…………え、あ、えと…」
「頼むよッ!頼むってッ!」
「いや、あの、えと」
「売れないってかッ!?ああッ!?」
「いっ、いえっ!そう言う訳じゃ…」
「じゃあとっとと売りやがれッ!」
「あの、話を…」
「早くしろこの」
瞬間。
玻菜さんが私の胸倉を掴んだ、その瞬間。
ガチャリと、玻菜さんの頭に、浮遊する数丁のショットガンの銃口が突き付けられました。
「…………随分物騒な事をしてくれるじゃねぇか」
「…他の利用者さん、そして私達司書に害が及ぶと判断した場合、私達司書には利用者を攻撃する為の武器の使用が許可されています。
この銃、そして銃弾は現実の貴方の肉体には一切影響を与えません。
…ですが、貴方のデータを破壊し、この遺言書庫へ二度と立ち入る事が出来ない様にするぐらいなら出来ます。
…お願いですから、話をちゃんと聞いて下さい」
「…………チッ」
玻菜さんは舌打ちをして私の胸元から手を離します。
私も、玻菜さんに突き付けていた銃を消し、一つ、深呼吸をしました。
…電脳空間、それも相手を死に至らしめないとは言え…銃を人に向けるのは、私達司書であっても抵抗があります。
現に、ヒトミとシグレは一度も銃を使った事が無いそうです。
…私は臆病ですから、すぐに銃に頼ってしまいますが…。
「…………なんで売ってくれないんだ」
「…私も、確認するまでは想像も出来ませんでしたが…もし星名 瑠羽さんの全てのデータを玻菜さんにお譲りした場合、その総額は…日本円で約五千万円になります」
「……………………は?」
玻菜さんが、ぽかんと口を開け、そう呟きました。
…私も…私も、金額を見て、唖然としました。
【想起】の中には、その死後にデータが提供された方もいます。
そしてそういった方は、親族の金額指定が無い限り、私達司書の判断で、作者さんの著名度を元に金額を決めていました。
著名な作者さんの【想起】は高額ですし、日本円で何千万、何億もするデータも保管しています。
星奈 瑠羽さんは、絵画の世界ではかなり名の知れた方だったみたいです。
…けれど…星奈 瑠羽さんのデータは…。
「…ムクが書いたレポートには、金額は、親族の方が決めたと書かれています。
…一方的に、金額を決めたと」
「…それで五千万か。
あのゴミ共…瑠羽の絵が金になるって分かってこんな事を……畜生がッ!」
玻菜さんはデスクを思いっきり叩くと、強く深いため息をついてデスクに片肘をつき、頭を抱え、
長く長く、深く深く、玻菜さんは考え込んで。
「…………全部で五千万なんだよな?」
ぽそり。
そう、呟きました。
「あ、は、はい。
全部で五千万円になります」
「…だったら…スケッチブックは?
スケッチブックだけだったら、いくらになる?」
「スケッチブックですか?
ええと…スケッチブックだけでしたら、日本円で八百万円ですね」
「…………高ぇな、くそが」
玻菜さんはまた、深く長く、ため息をつきました。
長く、長く、片肘をつきながら、考え込んで。
もう片方の手で、胸元を、ぎゅっと握りしめ。
「……………………タダで譲ってもらう事は、出来ないんだよな?」
「…はい。
如何なる理由があっても、無償で譲り渡す事は出来ません。
…それが、遺言書庫のルールですから」
「…………だよなぁ…。
お前達がルールを破れる訳無いもんなぁ…」
「…………ごめんなさい…」
「いや、良いんだ。…仕方の無い事だよ。
…じゃあ、あたしが買い取るまで取って置いてもらうって事は?」
「取り置き…という事でしょうか?
…………遺言書庫のルール…としては、そういった物はありません」
「…………そっか…」
「けれど、ルールとして存在していないという事は、禁止もしていない、という事ですから。
ちょっと裏技みたいになってしまいますが、このデータを誰にも売らない様、遺言書庫の司書達に連絡しますね」
「本当か!?…良かったぁ…!」
玻菜さんは深い深い安堵のため息をつきました。
…このスケッチブックは、玻菜さんにとって、とってもとっても大切な物…なのでしょう。
私には玻菜さんの理由や心情までは分かりませんが…約束をした以上、それは守らなければなりません。
遺言書庫のルールにそういった記載はありませんが…そうしなければならないと、私は思考したのです。
♪
その日から、約一ヶ月の事。
利用者さんが殆どいなくなった、閉館時間の、少し前。
「…………よぉ、ミツキさん」
閉館処理を行っていた私に、声を掛ける利用者さんがいらっしゃいました。
「…あっ、玻菜さん。
お久しぶりです」
「…ああ、久しぶり」
声を掛けて来たのは、一ヶ月前に【想起】の対応を行った、立華 玻菜さんでした。
…以前より、やつれて見えました。
玻菜さんのアバターは現実の姿をリアルタイムで反映する、初期の設定のまま。
つまり、今の玻菜さんの姿は、見たままの状態という事で。
「…大丈夫…ですか?
その…随分やつれて見えますが…」
「…バイトの量を増やしただけだよ。
それより、【想起】の時は全体のごく一部を見る事が出来るんだよな?
…それって、瑠羽のスケッチブックにも適用されるのか?」
「あ、はい。
えと、瑠羽さんのスケッチブックですと…表紙を含めた冒頭四ページを閲覧する事が出来ますね」
「…それだけで良いから、見せてもらう事って出来るのか?」
「は、はい。ちょっと待って下さいね」
「すまねぇな、閉館処理で忙しいのに…」
「あ、いえ。
ヒトミ…他の司書から、もしかしたらそういう事があるかもしれないって言われていたので、用意はしていたんです。
はい、どうぞ」
机の下、書類が収められている棚から透明なプレートを…星奈 瑠羽さんのスケッチブック、その冒頭四ページが収められたプレートを取り出し、玻菜さんにお渡ししました。
『…あのね、ミツキ。
もしかしたらだけどぉ、その立華 玻菜さん、星奈 瑠羽さんのスケッチブックの試し見をしたいって言うかもしれないから、すぐに取り出したり出来る様にしておいた方が良いかもねぇ』
そんな事を、のんびりとした口調でヒトミは言っていました。
あの時はどうしてそんな事をと疑問に思いましたが…まさか本当にそんな日が来るとは…びっくりです。
「…ありがとう。
本当に…本当に、ありがとう」
玻菜さんは今まで見た事の無い程顔を綻ばせ、プレートを受け取って、
「…………ようやく会えたね、瑠羽…」
そう呟き、プレートを操作しながら、食い入る様に…まるで脳に焼き付けるかの様に、瑠羽さんのスケッチブックを見続けたのでした。
♪
それから玻菜さんは、数日に一度、瑠羽さんのスケッチブックを見に、遺言書庫に来る様になりました。
いらっしゃる時間はまちまちで、朝早くに来る事もあれば、閉館間際に来る事もしばしばです。
そして玻菜さんは痛みを堪える様な表情で胸元を握りしめ、食い入る様にスケッチブックを見つめ、少しの時間の後、帰って行くを繰り返していました。
「…玻菜さん。
どうしてそこまで、このスケッチブックに執着するのですか?」
そんな事が二年程続いた、ある日の事。
私は玻菜さんに、そう、訪ねました。
玻菜さんは困った様な…寂しそうな笑みを浮かべて、
「…ミツキさん達には、きっと分からないよ」
そう、答えるだけで。
「…ヒトミ、どうして玻菜さんが瑠羽さんのスケッチブックを見に来ると予想出来たのですか?」
同じ質問を、そうなるだろうと予想したヒトミにも問い掛けると、
「…そんな気がしただけだよぉ」
そう言って、はぐらかしたのでした。
その理由は、人にとっては、とても理解のしやすい物で。
そして、私達司書にとっては、理解の及ぶ範疇では無くて。
だから、私は、
「頼むよ…頼むから…ッ!
一度で良い…命がある内に、瑠羽のスケッチブックの全部を見せてくれよぉ…ッ!」
…どうして玻菜さんが、私にすがりつく様に、そう懇願するのか、分からないのです。
♪
ある日の事。
玻菜さんは遺言書庫にアクセスするなり私を見付け、駆け寄って来て、
「聞いてくれよミツキさんっ!
あと少し、あと少しで瑠羽のスケッチブックが買えそうなんだっ!」
そう、満面の笑みで言いました。
余程嬉しいのでしょう、まるで喜びに尻尾を降る子犬の様です。
「す、凄い…凄いですっ!
本当に…本当にお疲れ様です…っ!」
「朝昼晩働き通しで頑張ったからなぁ…!」
「絶対に盗まれない様にしませんとね…」
「大丈夫大丈夫っ!仏壇にきちんと隠してあるからっ!」
「お仏壇…ですか?
玻菜さんまだお若いのに、お仏壇をお持ちなんですねー」
「あ、ああ。
母さんが仏教徒でさ、そんな理由でちっちゃな仏壇があるんだよ。
母さんが死んで、それを引き継いだって訳」
「…………あ…ご、ごめんなさい…!
私、そうとは知らずに…!」
「なぁに謝ってんだよ。言ってないんだから知らないのは当然だろ?
…きっと母さんも応援してくれてるさ」
お母さん。
そう告げる玻菜さんの目には、少しだけ悲しみが宿っている様に見えましたが、それでも、それに負けない程の嬉しさが灯っていました。
とても…とても、嬉しい筈です。
初めて遺言書庫に来てから、一年半。
玻菜さんがどんな日々を送っていたのかを聞く機会もありました。
…毎日毎日、自由を削り、食事も娯楽も、睡眠でさえも、極限まで削って、働いて、働いて、働き続けて。
そんな苦悩がようやく終わりを迎えるのです。
嬉しくない筈が無い、それぐらい、私にだって分かります。
「…どうして…」
「え?」
「あ、いえ。
…以前にもお聞きしたかと思うのですが…どうしてそこまでして、瑠羽さんのスケッチブックを…?」
玻菜さんはその問いに、困った様な…寂しそうな笑みを浮かべて、
「…ミツキさんには色々世話になったし…誰にも話さないって約束してくれたら…」
けれど、頬をぽりぽりとかきながら、そう言ってくれました。
「はい、勿論です。
この事は誰にも言いません。お約束します」
「…………遺言書庫の司書さんが言うなら信用出来るな。
…星奈 瑠羽については、どれくらい知ってる?」
「…高名な絵描きさん、という事は、存じています。
確か…幼少の頃から非凡な才能を見せ、数々の賞を受賞し、描いた絵は小さな物でも数百万で取引される…と、アーカイブに記載されていました」
玻菜さんからお話を聞いた後、私も、星奈 瑠羽さんが描いた作品に興味が湧き、何度か作品を見ました。
星奈 瑠羽さんは人物画は一切描かず、自然の風景を描き続けた絵描きさんでした。
私が見たのは、星奈 瑠羽さんが初めて大賞を受賞した、大きな大きな絵画。
キャンパスと絵の具だからこそ表現出来る、その色、その光…深い深い、水の青。
あの絵画を見た日の記憶は、今でも大切に、私の中に保管しています。
「…でも、一年ぐらい前に、病気で亡くなったんですよね…」
「…ああ。
あいつ、生まれつき心臓の調子が良く無かったんだ。
そうしてあの日…あいつの個展が終わったその直後、心臓が限界を迎えた。
…そのままぽっくりだ」
玻菜さんは苦しそうな顔で、胸元にある何かを握りしめました。
何度も見掛けた、ふとした瞬間に見せる、その仕草。
…もしかして。
「その、胸元にある何かを握りしめる仕草…もしかして、瑠羽さんと何か関係があるのですか?」
「…ああ、そっか。遺言書庫のアバターにはこれが反映されてないんだっけ」
玻菜さんはそう言って、親指で何かを吊る様な仕草をしました。
「これは瑠羽から貰った鍵なんだ。
あいつが死ぬ三日前に郵送されて来てさ、あいつ曰わくいつか二人で住むアパートの鍵だって言ってたけどな、どこのアパートかも分かりやしねぇ。
…それも教えずに逝っちまうなんてな…」
「…………玻菜さんと瑠羽さんは、とても…とても近しい関係だったのですか…?」
「……………………恋人、だったんだ。瑠羽は」
玻菜さんは目を閉じ、顔を伏せ、ぎゅうっと胸元に下げた何かを…瑠羽さんから貰った、二人で住む筈だったアパートの鍵を、握りしめました。
「…あいつ、中学の同級生でさ、あいつの才能に嫉妬した馬鹿共があいつをいじめてたのを助けて、それから一緒にいる事が多くなって、そのまま付き合い始めたんだ」
「…なんだか恋愛小説の様です…」
この話をヒトミが聞いたら、物凄く前のめりで「それでそれで!?どうなったのぉ!?」ってなりそうです…。
「ああ。あたしもそう思う。
あいつ、恋愛なんて一度もした事無かったからハンドブックとか超読み込んで、あたしを楽しませよう、喜ばせようって一生懸命でさ。
瑠羽の全ての絵と同じぐらい、あたしを大切にしてくれてさ。
恋人っていうのはそういうんじゃねぇ、互いに支え合うもんだって言ったら、あいつなり甘えて来てくれてさ。
…ま、瑠羽はくそ真面目だったから、びっくりするぐらい不器用だったけどな」
「…幸せ、だったのですね」
「…………ああ。幸せだった。
瑠羽との日々は、確かに、間違いなく、疑い様無く、幸せだった」
玻菜さんはとても嬉しそうに、楽しそうに、瑠羽さんての思い出を語ります。
…きっと瑠羽さんとの思い出は、幸せな物ばかりなのでしょう。
…私には、分からない物ではありますが。
玻菜さんの表情は、そういった思い出を語ってきた人達と、同じ顔をしていましたから。
「…………でも、その幸せも、長くは続かなかった。
…あれは、瑠羽の家に行った時だった。
瑠羽の家はお金持ちでさ、家もとんでもないぐらい大きくてさ。
そんな事を聞いてたから、あたしも目一杯おめかししてさ。息子さんとお付き合いしてますって、いっぱい練習してさ。
…そんなあたしを待っていたのは、瑠羽の母親のビンタだったんだ。
母親はあたしに色々言って来たよ。
「子供を誑かしやがって」とか、「お前みたいな家柄も金も無い女が星奈家に入れる訳無いだろ」とか、そんな事」
「…そんな…そんな事が、今のご時世にあるのですね」
…それが私の言える、精一杯でした。
だって、私には…それ以上、何も、言えないのですから。
だって…だって私は…。
「…まぁ、母親の言う事も分からなくは無いんだよ。
瑠羽の家の星奈家は由緒正しき家柄、それに対してあたしは母子家庭、あたしと母さんが精一杯働いてようやく生活出来る家だ。
…ミツキさんならその後どうなったのか、なんとなく分かると思うけどさ。
あたしと瑠羽は、星奈の家に引き裂かれ、会う事も許されなかった。
瑠羽には母親の監視がついてたみたいでさ、あいつと話が出来るのは、あいつが監視の目を潜り抜けて夜中隙を見付けて電話してくれる数分間だけ…あいつの死だって、ネットニュースで知ったんだ。
…あいつが死んで少し経った頃かな、あいつの母親が乗り込んで来て、あたしの家にあったあいつの作品を…あいつがくれた、どんなに生活が苦しくても、母さんだって手すら付けようとしなかった作品を、根こそぎ持って行っちまったんだ。
…それをどうするつもりだって聞いたら、売って金にするだってさ。
何が母親だから瑠羽の絵の売買権利は自分にあるだよ。
あれのどこが母親だよ。あんなの母親じゃねえ、あたしの知ってる母親じゃねぇ。
ゴキブリだ。ゴキブリ以下だ。
…自分の子供を、金の卵を生むガチョウ程度にしか見てなかった癖にッ!」
「玻菜さん」
出来るだけ穏やかになる様に務めながら、玻菜さんの名前を呼びました。
玻菜さんは…俯き、とてもとても怖い顔をしていた玻菜さんは、はっとした様に顔を上げました。
「あ…………ごめん。
…ちょっとあの時の事、思い出しちゃって」
「あっ、いえっ。
私こそ、突然呼び止めてしまってごめんなさい…」
「…いや、むしろありがとうな。呼んでくれて。
…あたしは、取り戻さなきゃいけないんだ。
世界中に散らばっちまった瑠羽の全部を取り戻すなんて、あたしには出来ないから。
…だから、あたしは、あのスケッチブックだけは取り戻さなきゃいけないんだ。
…瑠羽があたしの事を描いてくれたあのスケッチブックだけは、絶対に取り戻してみせる」
そう言って鍵を握りしめる玻菜さんの目は、まっすぐ、まっすぐ、前を見つめていて。
…私は遺言書庫の司書。絶対中立の存在。
…けれど、今、この瞬間だけは。
どうかどうか、玻菜さんに、幸あれと、願っても…良いと、思うんです。
『…………今日午前五時頃、……県……市のアパートが全焼する火事がありました。
……県警によりますと、この火事により八人が重傷、十一人が軽傷と確認されております…………』
♪
「…ミツキ、あんまそわそわすんなって」
「イツワ…ですが…」
「あたし達司書がそわそわしてたら利用者達だって落ち着かねぇだろ?
…あたしだって気になってんだ、だから落ち着け」
「…………はい…………」
…偶然目に入ったあの火災のニュースから、一週間が経ちました。
……県……市。
その住所は、玻菜さんが現住所としている住所そのままで。
…そうして玻菜さんは、ここ一週間、全く姿を見せていなくて。
有り得ない。
有り得ない。有り得ない。有り得ない。
だって……市は広いもの。アパートなんて沢山ある土地柄だもの。
玻菜さんだって、お仕事が忙しくて来る事が出来ていないだけ。
ついこの間までは二日と開けず来ていたけれど、途端に忙しくなっただけ。
そう、そうです。
確率的に、絶対、絶対、有り得ないんです。
…そう、何度も、何度も、自分に言い聞かせて。
…玻菜さんが遺言書庫に姿を見せたのは、それから更に五日後の事でした。
「…………ミツキさん。
瑠羽のスケッチブック、見せてくれ」
カウンターにのそり、のそりと歩み寄るその姿は…そう、あれは…いつか何かで見た、地獄を描いた古い書物に書かれていた、亡者や幽霊、そのもので。
私は何も言わず…何も言えず、玻菜さんに瑠羽さんのスケッチブック、そのサンプル版をお渡ししました。
玻菜さんはそれを受け取ると、その場にぺたりと座り込み、
何度も何度も、表紙を撫でて、
嫌な予感がする。
私には本来備わっていない、虫の知らせとも言える感覚が、ずっとずっと、嫌なアラート音を立てていて。
「…………ごめんなぁ、瑠羽…」
玻菜さんは、小さく、小さく、そう呟き、
突然、操り人形の糸がぷつりと切れたかの様に、
玻菜さんが、力を失って。
「ッ!!!!」
感謝を述べるつもりはありません。
ですが、嫌な予感がする、そのアラート音のおかげで、
私はカウンターを乗り越え、玻菜さんが床に倒れ込むその前に、
私は玻菜さんを、抱きかかえる事が出来たのでした。
「玻菜さんッ!玻菜さんッ!!」
呼び掛けに応答無し。
目を見開いたまま、呼吸も、身動きも、無くて。
「玻菜さん…お願いです…目を開けて…ッ!」
力が、完全に抜けていて。
ぶらんぶらん、頭も、腕も、力無く、揺れていて。
「玻菜さん…玻菜さんッ!!」
「ミツキ、落ち着いて」
不意に、肩を叩かれ、
ムクの声が、聞こえて。
「ミツキ、目の前にあるのはデバイスが読み取った玻菜さんの脳波と生体データを元に作られたアバター、データの塊だよ。
データは息をしない、脈も無い。
…多分、遺言書庫にアクセスしながら意識不明になっちゃったんだ」
「ならッ!それなら早くッ!早く対応をッ!」
「それは私達がやるよ。
…ミツキは下がって」
「でもッ!」
「下がって」
…ムクの静かな、けれど強い口調に、私は、応じるしか出来ませんでした。
そこから先の記録はありません。…オーバーヒートしてしまい、意識が飛んでしまった様です。
…だから、他の司書達が、救急車やその他の応対をしてくれて。
…そうして私は、玻菜さんの現状を、知る事になりました。
玻菜さんはあれからずっと…アパートが火災にあってから、ずっとずっと、野宿をして暮らしていた事。
食事も水分も一切取らず、救急隊の方達が公園で見付けた玻菜さんは、電脳世界に…遺言書庫にダイブする為のデバイスを頭に着けたまま俯き、殆ど骨と皮だけになっていたそうです。
…瀕死の状態だったと、暫く経ってから、救急隊の方が教えて下さいました。
「頼むよ…頼むから…ッ!
一度で良い…命がある内に、瑠羽のスケッチブックの全部を見せてくれよぉ…ッ!」
三日後。
遺言書庫にダイブした玻菜さんは、私を見るなり、そう言って、すがりついて。
睡眠も、飲食も、何もかもを削って、
決死の思いで貯めたお金を全て失い、
何もかもを、本当に何もかもを失い、
せめてせめてと、死ぬ前に、自分が愛した人が残した物を見たいと懇願する、自分の死を悟った玻菜さんに、私は、
「…………出来ません。
それは、ルールから逸脱します」
…私はそう、玻菜さんに告げました。
だって。
だって私は、司書だから。
だって。
だって、私は、
「…玻菜さん。
瑠羽さんのスケッチブックは、ずっとずっと保管します。
だからどうか、ご自身の生命を維持する事を最優先に」
「……………………はは…………あはは。
あははははははははははははははははははははッ!
そうだよなぁ!?そうだよなぁッ!?
てめぇらはルールの中でしか生きられないもんなぁッ!?そういう奴らだもんなぁッ!?
…………なんとか言ってみろよ人工知能ッ!人間のパチモン風情がッ!!」
…玻菜さんの声は、遺言書庫内に、響き渡ったのでした。
♪
「…そっか。そんな事があったのか。
…大変だったな、ミツキ」
その日の夜。みんなが寝静まった後。
リビングルームで翌日の資料を読んでいたナツミに話をすると、ナツミはそう言って、こくりと炭酸飲料に口を付けました。
話の内容は、今日の玻菜さんとの事。
自分の中に、留めておく事が、出来なかったのです。
司書としての仕事に影響を与える事はありませんが…けれど、思考の端で、ずっとずっと、ちらついてしまって。
けれどその事を、みんなの前で話す事も出来なくて。
そんな悶々とした中、たまたまいたナツミに話をした…というのが、事の経緯でした。
「…私は…私は、あの時の対応を、遺言書庫の司書として、間違っていないと判断しています。
…けれどその対応は、玻菜さんを傷付けるだけでした。
…私は…私は、何を、間違えたのでしょう…?」
「…ああ、くそ。
あたし以外の司書ならこういう時うまい返しが出来るんだけどなぁ…あたし相談とか苦手なんだよなぁ…」
「そ…そうですよね…。
ごめんなさい、夜遅くに、こんな相談をしてしまって…」
「謝るこたぁねぇよ。
…そうだな…あくまでミツキと同じ司書の立場から言わせて貰えれば、ミツキの対応は何一つ間違っちゃいねぇ。
あたし達は人工知能、ゼロとイチの集合体だ。
限らなく人間に近くなる様に設計されてはいるが、ゼロとイチで構成されたあたし達は、設定されたプログラムに背いたり逸脱するこたぁ出来ねぇ。
だからこその遺言書庫のセキュリティーだ。
人間の様に感情や私情に左右されず、ルールに厳格で、絶対にシステムに違反しない。
…そう言う意味で言えば、ミツキの対応は何一つ間違っちゃいねぇよ」
「…そう…ですよね…」
…近代に入り、人工知能の技術は格段に進歩しました。
私達の様に、人間の様に振る舞い、人間の対応をする、そんな人工知能も、巷には溢れています。
…私達遺言書庫の司書は、そんな側面から見ても果てしない程の技術で造られているらしいですが…。
けれど、どんなに技術が進歩しても、どんなに人間に酷似した反応を見せる事が出来たとしても、感情を人工知能に植え付ける事は、終ぞ出来ませんでした。
…それは、私達にも言える事で。
「…玻菜さんは、どうしてあそこまで、瑠羽さんのスケッチブックを欲したのでしょう。
自分の何もかもを削ってまで…死を、覚悟してまで」
「あたしには分からねぇ。
…ただヒトミならきっと…愛故に、って言うだろうなぁ」
そう言ってナツミは、ごくりと、炭酸飲料を飲み干したのでした。
私は、遺言書庫司書、ミツキ。
私は、超高度な技術によって造られた、人工知能。
私は、ゼロとイチの集合体。
私は人の様に、感情や愛を知らない人工物。
…もう…もう私には、何も出来ないのでしょうか?
人工知能としてのシステムを逸脱せず、玻菜さんを救える方法は、もう、無いのでしょうか?
♪
玻菜さんが遺言書庫に来なくなってから、一ヶ月が過ぎました。
もう、風の噂にも、玻菜さんの名前を聞きません。
「…やっぱり、玻菜さんの事、心配?」
「…はい…」
一緒に書架整理をしていたシグレは、へにゃりとした顔をしながら、そう私に声を掛けてくれました。
…自分達が人工知能と…プログラムと知っていてもなお、信じられないと考える事があります。
私達は利用者さん…普通の人間の様に、笑い、悲しみ、怒り、心配し、苦悩します。
しかしそれは、ゼロとイチの情報のから算出された表情の変化でしかありません。
…どうして。
どうして私達は、造られたのでしょう…?
「…玻菜さんの事、心配なら、ちょっと探ってみる?」
「探る…ですか?」
「ん。
…常連の利用者さんの内の一人が、探偵みたいなお仕事をしているって言ってた。
表社会や裏社会の情報、沢山持ってるって」
「実在するんですね、探偵さんって…。
というかシグレ、そんな危ない人と関わっていたんですか?気を付けて下さいね?」
「…ん。大丈夫。悪い人じゃないから。
…今度見掛けたら、ミツキに話し掛けて欲しいって、伝えてみる」
「ありがとうございます、シグレ」
表社会や裏社会に精通している探偵さん…どんな方なんでしょう…?
やっぱり怖い見た目なのでしょうか?それともなんだか良く分からない見た目?
そういえば最近もやもや動く幽霊みたいなアバターが公開されたと聞いた事があります。あれはちょっと怖かったです…。
「……………………って、探偵さんって貴方の事だったんですか?」
「にゃははー、やっほーミツキちゃーん」
数日後。
シグレが言っていた探偵さんが、私に声を掛けて来ました。
ええ、確かに常連さんです。
というかこの人、毎日毎日遺言書庫のどこかでお見かけしていますし、なんなら私も何度も何度もお話しています。
お名前はヌルさん。可愛らしい猫の耳と尻尾を着けたアバターを使っている方です。
ご職業はフリーターという事でしたが、まさか探偵業も行っていたとは…驚きを隠せません。
「事情はシグレから聞いてるにゃー。
確か、立華 玻菜の事にゃよね?」
ヌルさんは懐からメモ帳を取り出して、ぱらぱらとページをめくりました。
ヌルさん、言葉の合間合間ににゃと発音するんですよね。猫のキャラクター性をとっても大切にしている方です。
「んー…ちょっと調べてみたんにゃけど、今はかなーり意気消沈してるっぽいにゃー。
幸い亡くなったお母さんがちょろっとお金を残していたみたい、使わずに取ってあったみたいにゃから、それをどーにかこーにかやりくりしてるみたいにゃねー」
「…そう、ですか…」
「…あ、でも、ここ二、三日、ちょーと危ない奴らと関わってるみたいにゃねー」
「危ない奴ら…?」
「毎度お決まり麻薬の売人にゃよー。
SNSで知り合ったっぽくて、どーやら麻薬の運搬をかなーり強引にお願いされているっぽいんにゃよねー」
「ッッッッ!
す、すぐに止めないとッ!」
「まーまー落ち着いて落ち着いて。
そっちは警察と相談しながら慎重に進めてるから問題無しにゃー」
「…………ありがとうございます…」
「良いって事にゃー。
こっちもがっぽり稼がせてもにゃうしっ!」
「あ、あはは…」
…どうやって稼ぐのかとかは聞かないでおきましょう…。
「まっ、立華 玻菜についてはそんなところにゃー」
「ありがとうございます。
…それで、その…」
「立華 玻菜のその後にゃよね?
本来ならがっぽり依頼料を貰うところにゃけど、今回は他でもない遺言書庫の司書の依頼にゃし、他からがっぽり貰うから、今回は無料でお受けするにゃー」
「ありがとうございますっ!」
…ひとまずはこれで大丈夫…だと思います…勿論、私が何も出来ない事が歯痒くはありますが。
…私にも、何か出来る事は無いのでしょうか。
設定されたルールも、プログラムも越えられない、人工知能の身ではありますが。
それでも何か…創造主という神の定めたルールも、プログラムも欺いて、玻菜さんを助けられる方法。
何か…何か、無いのでしょうか…?
「…あ、そうそう。
立華 玻菜と一緒に星奈 瑠羽って名前もシグレから聞いたけど、何か関係あり?」
「あっ、えとっ、そのっ、詳しい事は玻菜さんとの約束もありますので…ごめんなさい…」
「大丈夫にゃー。
ミツキのその反応でなんとなーく察せたし」
「えっ!?」
「…ひっかかったにゃー。
ミツキのその反応、立華 玻菜と星奈 瑠羽の間には何かあるとしか思えないにゃー。
ほんっと、ミツキはお人好し過ぎるにゃねー」
「あっ…そっ、そのっ、こっ、この事は内密に…っ!」
「勿論にゃー。
その代わり、全部が終わったらじーっくり話を聞かせて貰うにゃよ?」
「は、はい…」
…なんだかとんでもない人にとんでもない約束をふっかけられた様な気がしますが…それはこの際、一旦考えない様にしましょう。
「あ、それで本題にゃんにゃけど、星奈 瑠羽には妙な噂話があるのは知ってるにゃ?」
「あ、いえ、知りません。
どんな話なんですか?」
「…実は星奈 瑠羽は、死ぬ直前に遺作になる絵画を描き上がってたんにゃよ。
にゃけどその絵画、実は行方不明にゃんにゃよねー」
「星奈 瑠羽さんの遺作…この絵画の事ですか?」
私はヌルさんに、一般的に星奈 瑠羽さんの遺作と呼ばれる絵画をお見せしました。
瑠羽さんが亡くなる一ヶ月前に描かれたその絵画のタイトルは、「死光(しこう)」。
真っ暗な、夜の様に深い暗闇の中で瞬く、星を描いた絵画…星奈 瑠羽を天才と奉り上げたその技術の全てを注ぎ込んだ、最期の一枚。
まさに遺作に相応しいタイトル、そして絵画です。
この絵画を描いている時から、瑠羽さんは死を覚悟していたのでしょうね…。
……………………あれ?
違和感。
何か、辻褄の合わない事がある、そんな感覚。
「…ミツキ、どうかしたのかにゃ?」
「あ、いえ。
…でも、この遺作が行方不明って、どういう事でしょう…?」
「んー…それが、どうにもその遺作は遺作じゃないっていう話にゃー」
「…………え?」
「星奈 瑠羽は「死光」を描き上げた後、もう一枚の絵画を描き上げたらしいにゃー。
ただその遺作がどこかに行ってしまったみたいにゃんにゃよねー」
「ど…………いう、事でしょう…?
というより、どうしてそんな話が…?」
「「死光」を遺作って発表したのは星奈 瑠羽の母親っていう話にゃんにゃけど、複数のメイドが遺作じゃないって言っているっていう話が漏れ出て来てるんにゃよねー。
ま、殆ど噂止まりな上に自然消滅しちゃったみたいで、正確な事は何一つ分からんぽんにゃけどにゃー」
「…………なんだか、都市伝説みたいですね…」
「大した事の無い都市伝説にゃけどにゃー」
…瑠羽さんが描き、そして消えた、本当の遺作。
死を悟り、死を覚悟し、死を描いた瑠羽さんが、その後に描いたもう一枚。
「…………ヌルさん。
私は人工知能なので良く分からないのですが…もし人間が死を覚悟して、死を描ききって…その後に何かを描くとしたら、何を描くのでしょう?」
「何ってそりゃあ…死を目前にしているにゃら、死への恐怖や絶望、負の感情、あとは…」
言葉を続けようとしたヌルさんは、けれど突然目を見開き、思案する様に…超高速でニューロンを動かす様に、視点がぐるぐるぐるぐると激しく動き回り、
「…………星奈 瑠羽に恋人っていたにゃ?」
「えっ!?あっ、そのっ、えとっ!?」
「あーうん、何かしようって訳じゃにゃいから、そんなに動揺しなくても良いにゃー」
「は、はぁ。
で、でも、どうしてそんな事を…」
「…良いかにゃ、ミツキ。
死を悟り、死が間近に迫り、それでも幾許の時間が遺された人間の中には、大切な人に少しでも多くを遺す人間もいるにゃ。
星奈 瑠羽とその家族はあんまり仲が良く無かったって聞いてるから…遺すとしたら、恋人か、それと同じぐらい大切な人。
…………心当たり、あるにゃ?」
「……………………探しましょう。瑠羽さんの最期の絵を。
必ず…必ずどこかにある筈なんです…!」
「…何か理由あり、みたいにゃね?
おっけーおっけー、こっちは任せるにゃ。
さぁて、忙しくなって来たにゃー!」
「…ごめんなさい。
ご迷惑をお掛けしてしまって…」
「気にしないでにゃー。
たまには善い事しにゃいとにゃし」
「…ありがとうございます、ヌルさん。
本当に、本当に、ありがとうございます…!」
これが、どんな結末を迎えるか、人工知能の私にすら、それは分からない。
けれど、進もう。進むしかないんだ。
大丈夫。
進んだ先に、必ず光があると、信じられるから。
♪
…全部を失ってから、どれだけの月日が経っただろう。
私は今、ネットカフェと野宿を交互に繰り返しながら、どうにか日々を生きていた。
今日はネットカフェにいる。…ここが、指定された場所だから。
テーブルの下に設置されたサーバーの背面を探り、それを探り当てる。
それは、少し大きめの、黒い袋。
椅子に座ってそれを開き、中身をテーブルに広げた。
出て来たそれは、卵大の、ラップにくるまれた覚せい剤、十個。
…これを全部飲み込んで、税関を越え、無事に密輸出来れば、八百万円が貰える。
初めてこういう事をするという事もあり、量も少なく、報酬も高い運びを斡旋してくれたそうだ。
…怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
とても…とても、怖い…ッ!
でも、これが、全部を失った私に残された、最期のお金を稼げる手段だ。
…それに、もう、体も限界だった。
死を覚悟して働いていた時の反動が、私の体を蝕んでいたのだ。
これが、私に与えられた、最期のチャンス。
「…………これでようやく会えるよ、瑠羽」
狂気じみた悪意を孕んだ卵を、一つ、手に取り、
ゆっくり、ゆっくり、口に運んで、
携帯が、鳴った。
携帯が、鳴った。
携帯が、鳴っている。
携帯が、鳴り続けている。
…私は、卵をテーブルに戻し、携帯を手に取った。
表示されている番号は、携帯に登録していない、知らない番号。
「…………はい」
躊躇う事無く、着信に出る。
この仕事を斡旋してくれた人も、いつも登録の無い、知らない番号だった。
だから今回も、それだと思ったんだ。
『大丈夫ですか!!??まだ一つも飲んでいませんか!!??』
聞こえて来た声は、
二度と聞く事は無いと思っていた声。
二度と聞けないと思っていた声。
かつて毎日の様に会い、力を与えてくれて、
…そうして、酷い事を言ってしまった声。
「…………ミツキ、さん…」
瑠羽のスケッチブックが保管されている遺言書庫の司書、人工知能の、ミツキさんの声。
『あと十分でそちらにヌルさんと警察が向かいますッ!!
ヌルさんが警察にきちんと事情を話してくれていますッ!!玻菜さんは絶対に絶対に捕まりませんッ!!
だからその場から絶対に動かないで下さいッ!!
そのネットカフェの周囲を他の麻薬組織が取り囲んでいますッ!!玻菜さんのその麻薬を狙っているんですッ!!
出て行った瞬間に二度と陽の目を見る事は出来ませんッ!!
絶対に…ヌルさんが来るまで絶対に動かないで下さいッ!!』
「…………どうして、色んな事が分かるの?
あたしがネットカフェにいるとか、目の前に麻薬があるとか」
『…………玻菜さんの電話番号から位置情報を探り当て、玻菜さんのいるそのスペースのパソコンのカメラをハッキングしました』
不意に、目の前のパソコンが付く。
映し出されていたのは、OSの起動画面でも、デスクトップの画面でもない。
真っ白な背景に、切羽詰まった様な表情を浮かべる、ミツキさんの姿だった。
「…………本当になんでもありだな」
『…ルールやプログラムに違反しない事で電脳的な事ならなんでも出来ます。
…私達は、人工知能ですから』
「…………そっか」
どさりと、椅子の背もたれにもたれかかる。
…なんだか、すっごく疲れた。
「…………なんの用?
あたし今、すっごく忙しいんだけど」
『…玻菜さんに、どうしてもお伝えしなければならない事があります。
どうしても、どうしても、お伝えしなければいけない事があるんです…ッ!』
「じゃあ今言ってよ。
あたしこれから海外に行かなきゃいけないんだから」
『玻菜さんッ!』
「ッうっさいッ!
うっさいうっさいうっさいッ!」
椅子にうずくまり、俯く。
「これを運べば金が手に入るッ!瑠羽のスケッチブックを取り戻すのに充分な金額がッ!」
そう。
だから私は、危険でも、怖くても、やるしかないんだ。
「だいたい全部全部てめぇらのせいだろッ!?
てめぇらがルールを破れないからッ!てめぇらが司書だからッ!てめぇらが人工知能だからッ!
…全部全部ッ!全部全部全部ッ!てめぇらのせいだろッ!?」
本当は、こんな事言いたくなんかない。
久し振りとか、あの後どうしてたとか、止めてくれてありがとうとか、
他にも言いたい事、いっぱいあるのに。
「…恨んでやる。呪ってやる。
てめぇらを、遺言書庫の司書達を、
この世界の何もかもを、呪ってやる…ッ!」
ごめんなさい。
ごめんなさい。
こんな事しか言えなくて、ごめんなさい。
違う。違うの。
私が言いたい事は、こんな事じゃないの。
『……………………仰る通りです。
私は人工知能。システムに縛られ、ルールを破れず、玻菜さんを見捨てるしか出来ない、
…呪詛を吐かれ、呪いを受けても仕方の無い、そんな存在です』
「ならッ!」
『それでも。
それでも私は、玻菜さんに伝えなきゃいけないんです。
人が想いを遺し、人が想いを託し、人に遺言書庫と呼ばれる場所の司書だからこそ、伝えなければいけない事が。
でもそれはここで言っても意味が無いんです。ここにそれは無いんです。
…お願いします。それを飲まないで下さい。
もし飲んでしまったら玻菜さんは逮捕されます。
そうなってしまったら遺言書庫のルール故に二度と玻菜さんにコンタクトを取れない、瑠羽さんが玻菜さんに遺した想いを届けられなくなってしまうんです』
「…る、う、の…?」
あたしの大切な人。
私が今頑張っている理由。
『だから絶対にそれを飲まないで下さい。
お願いです…お願いだから…ッ!』
今、
目の前の卵を飲んでここから出れば、あたしは大金を手に入れる。
その大金で、あたしは、瑠羽のスケッチブックを手に入れられる。
飲まずにミツキさんの言う通りにすれば、瑠羽が遺した想いを得られる。
ただそれは、詳細の知れない、得体の分からない物。
あたしは、
あたしは、
あたしは、
「…………君が、立華 玻菜さん?」
それから、十分後。
猫耳付きのフードを着た女の子が、あたしのいるスペースを訪ねて来て、そう言った。
「…………はい」
そう答えるあたしの後ろで、警官がテーブルの上にあった、十個の卵を回収してる。
「…………そっか。
…後はあちし達に、全部任せて」
女の子はそう言って、あたしをぎゅっと、抱きしめてくれた。
その体は、とても冷たかったけれど。
「…ありがとう。この道を選んでくれて。
あちし達を、信じてくれて」
それでも、よしよしと言う様に、頭を撫でてくれたんだ。
♪
警察の事情聴取は、思っていたより早く終わった。
後日詳細を聞きたいって言っていたけれど、逮捕されたりというのは無いみたいだ。
「…ありがとな。なんか色々…」
「気にしなくて良いにゃー。
あちしも、ミツキのお願いや手回しが無かったらここまで大規模に動けなかったし」
『…間に合って、本当に、本当に、良かったです…。
ヌルさんも、本当に、本当に、ありがとうございました…!』
「良いって事にゃー。
さぁてこれから警察相手にがっぽり稼げぐにゃ…腕が鳴るにゃ…!」
そのミツキさんはと言うと、なんだか恐ろしい事を言っているヌルさん…だったか、その猫耳フードの女の子が持っている携帯の中にいる。
どうやらネットが接続されている所にはどこにでも行けるみたいだ。流石人工知能。
「…………ミツキさん」
『?』
「……………………本当に、ごめん。
あたし、正気じゃなかった…まともじゃなかった。
ミツキさんが人工知能だから、遺言書庫が今まで存続してたんだもんな。
だからあたしは、瑠羽のスケッチブックを探す事が出来たんだもんな。
…それを責めるなんて、どうかしてた。
謝って済む事なんかじゃないって事ぐらい、嫌って程分かってる。
…でも…本当に…本当に、ごめん」
『…良いんです。
玻菜さんが無事なら。
それで…それで、充分です』
ミツキさんは画面の中で微笑んでいる。
…これが、ゼロとイチのデータから造り出された、人工知能?
実体が…人間としての体が無いだけで、心や魂を持つ人間と、そう大差は無いじゃないか。
いや、むしろ、人よりずっと…ずっとずっとまともじゃないか。
…ミツキさん達は、完璧に人間の様に振る舞う様プログラムされているだけなのか?
それとも何か、他に理由があるのか…?
「うぉーい、玻菜にゃーん」
声にはっとして、思考がリアルに戻って来る。
ヌルの顔が、目の前にある。
心配そうに、へんにゃりと眉を歪めている。
「お疲れにゃ?大丈夫かにゃ?」
「あ…うん、今日は…ちょっと疲れた。
でも大丈夫だよ」
「良かったにゃー。
ああ、そうそう。
玻菜さんの今後をミツキと相談しにゃけれど、組織から匿う為に暫くはあちしが経営するマンションに住んでもらって、あちしの手伝いをしてもらうって事で良いかにゃ?」
「あ、ああ。
宿無し収入無しのあたしから見りゃ、そりゃ有り難い話だが…………良いのか?」
「二言は無いにゃっ!こき使ってやるにゃっ!」
「あ…ありがとう、ヌル」
いや、本当に有り難い話だけれど…いったい何者なんだこの猫耳フード。
『それでですね、玻菜さん。
明日、一緒に来て頂きたい所があるんです』
「えっ……と、どこに…?」
『…さっきお話した、瑠羽さんが玻菜さんに遺した想い、それが保管されている場所です』
「…あたしに麻薬の密輸をさせない為の嘘じゃ無かったのか…!?」
「はっはっはー。ミツキは司書の中でもトップクラスに嘘が付けないんにゃよ?
そんなミツキが大一番とは言え嘘なんてつける訳無いにゃー」
『わっ、私だって機密に関わる事なら嘘をつけますっ!』
「あーーーー…………」
『いったいなんの納得なんですか玻菜さん!』
「いや、うん、まぁ…ミツキさんはそのままでいてくれ」
『あっ、はっ、はいっ!…………????』
割と本気で頭の上に疑問符が出しながら首を傾げるミツキさん、抵抗する警察官の携帯を奪ってタクシーを呼ぶヌル。
それを見ながら乾いた笑いあたしは、けれど、内心は不安でいっぱいだった。
瑠羽が遺した想い。
それがどんな物か、あたしには検討もつかない。
…もしも。
もしも、瑠羽の遺した想いが…死への恐怖や絶望、負の感情だったら?
あたしを…責め立てる物だったら?
あたしはそれを、直視出来るのだろうか…?
…いや、直視しなきゃ駄目だ。
瑠羽はあたしの大切な人。
その瑠羽が、あたしに遺した想い。
…例えどんな物であったとしても、あたしには、それを直視する義務がある。
腹を括れ。覚悟を決めろ。
一つ、大きく深呼吸をして。
…あたしは、ヌルの呼んだタクシーに乗り込んだ。
♪
「…ここが、瑠羽が想いを託した場所…?」
『はい。
ここが、瑠羽さんが玻菜さんに想いを託した場所です』
「…………いや…ここ…普通の銀行だろ…?」
ヌルが管理するマンションで体を休めた、その翌日。
辿り着いた場所は、町の中心部から少し離れた大手銀行、その前。
…どこからどう見ても、普通の銀行だ。
訳が分からず身動き一つ出来ないあたしを置いてけぼりにして、ヌルはずかずかと銀行の中に入り、
「昨日電話したヌルにゃー。
星奈 瑠羽の貸金庫を開けたいんにゃけど…」
「あ、はい。
ではそちらに座って少々お待ち下さい」
銀行員の女性は席を立ち、奥の方にいる男性へと駆け寄る。
あたし達は女性の言う通り、椅子に座って待つ事にした。
「ここに瑠羽の遺した想いがあるのか?
貸金庫ってどういう事だよ…?」
『…玻菜さんは、瑠羽さんが描いた最期の一枚の事は知っていますか?』
「最期の…一枚?
あの「死光」って名前の絵か…?」
「…どうやら本当に知らないみたいにゃー。
星奈 瑠羽は「死光」の後に最期の一枚を描き上げ、それをここに保管したっていう話にゃー」
「…………いやいや、いやいやいやいや。
ちょっと待ってくれよ。
もしもそれが本当だとして、なんでここにあるって分かったんだ?
それに貸金庫の中にあるって…あったとしても開ける事なんて出来ないんじゃ…」
『…瑠羽さんの行動で、一つだけ気になっていた事があるんです。
一つだけ、玻菜さんから聞いている人物像から察した瑠羽さんならば、絶対にしないであろう行動を、瑠羽さんはしていたんです』
「…何を、したんだ。
瑠羽はいったい、何を…」
「星奈 瑠羽は一ヶ月前に自分の死を悟っていたにゃ。
…そんな星奈 瑠羽が、ただ恋人を期待させて絶望に落とすだけの物を、渡すと思うかにゃ?」
「…………ッ!!!!」
あたしはそれを握りしめる。
あいつが死ぬ三日前に郵送されて来た、いつか二人で住むアパートの鍵。
いつか二人で住めるって期待して、けれど住めない事が分かって確かに絶望した、鍵。
「…じゃ、じゃあ、これは…まさか…」
「よろしいでしょうか?」
声を紡ぎ終わる前に、声を掛けられる。
そこに立っていたのは、先程女性が声を掛けていた、ぴんと背筋の伸びた初老の男性だ。
「お待たせしました。この銀行の支店長です。
…それでは、ご案内します」
初老の男性…支店長は、にこやかな笑みを浮かべてあたし達を奥へと案内した。
ぎゅっと、痛いくらいに鍵を握りしめる。
神様。
いもしない超常の存在に、語り掛ける。
神様。神様。
どうかどうか、繋いで下さい。
私にたった一本だけ残された、最後の希望を。
お願い…お願いだから…!
♪
『…瑠羽さんが本当の最期の一枚を描いたと仮定した私達は、瑠羽さんの描いた最期の一枚の行方を追ったんです。
そこで私達は、瑠羽さんと最期に接触した人物を探り当てました。
それが瑠羽さんの専属のメイドさんだったんです』
「本当に星奈 瑠羽に忠誠を誓っていたみたいにゃねー、交渉には長い時間が掛かったにゃー。
…けれど、鍵を持つ者が託された物を欲しているって丁寧に説明したら、ここの事を話してくれたにゃ」
『ただ何をここに託したのかはメイドさんも分からないままでした。
何度聞いても教えてくれなかった…たとえ何があっても、メイドさんが巻き込まれない様、瑠羽さんは配慮していた、と』
「…ヌル様、そしてミツキ様の仰った通りです。
…星奈 瑠羽様の使いが当銀行を訪ねた時、端末を用いてやり取りを行いました。
…そうして私達は、それを、星奈 瑠羽様から託されたのです」
…私は…私達は、やがて、明るい部屋に辿り着いた。
いくつもの小さな扉のある部屋。
金庫の、保管室。
「…こちらの金庫です。立華 玻菜様」
支店長が指し示した扉。
横に長いタイプの…瑠羽の最期の想いが託された金庫。
首から下げていた鍵を外し、鍵穴に差し込む。
差し込めない。
手が震えている。
ガチガチ。ガチガチ。ガチガチ。ガチガチ。
鍵と鍵穴がやかましい金属音を立てる。
くそ。くそくそくそっ。
止まれ…止まってくれよ…ッ!
「…………玻菜にゃん」
そっと添えられる手。
今までのおちゃらけた表情では無く、少し強張った、けれど微笑んだヌルの、冷たい手。
端末の向こうでは、唇を真一文字に結んだミツキさんが、あたしの手に触れる様に、手を伸ばしている。
体温どころか、触られた感覚も無い。
此方側にけして出る事の出来ない、電脳の体。
…けれど、確かに感じた。
ヌルの心の温かさを、ミツキさんの肌の柔らかさを。
あたしは、確かに感じたんだ。
気付けば、手の震えも止まっていて。
がちゃり。
差し込んだ鍵が、音を立てて開錠される。
ゆっくり、ゆっくり、扉が開かれる。
中に手を入れてそれを取り出し、部屋にあるテーブルの上に置いた。
それは、新聞紙で何重にもくるみ、麻の紐で厳重に封印された、
…瑠羽が良く使っていた、キャンパスにもよく似た、大きな長方形。
麻の紐の結びを解き、新聞紙をめくる。
「…………そんな…まさか…ッ!」
「こんなのってあるにゃ…!?」
『これは…確かに…確かに玻菜さんにしか託せませんね…』
ヌルも、ミツキさんも、銀行の支店長ですら、目を見開き、息を飲んだ。
それを持ち上げる。
出てきたのは、
キャンパスに、油絵の具で描かれたそれは。
…あたしの、絵。
すやすや、すやすや、テーブルに突っ伏して眠る、あたしの絵。
有り得ない。
だって瑠羽は、光や、水、空みたいな、風景画しか描いていないはず。
瑠羽は、人の絵を一枚だって描いていないもの。
…………でも。
「……………………あ」
「ど、どうしたにゃ?」
「いや。…そう言えば、こんな時あったなって思って」
そう。確か、いつかの事。
あたしが突っ伏して眠っている所を、瑠羽はスケッチしていたっけ。
…この絵は、あの時に、よく似ている。
『…裏に何か、書いてあります』
ミツキさんの言葉に、あたしは、絵を裏返す。
そこには、瑠羽がいつも使っていた瑠璃色のインクで…瑠羽のいつもの字で、多分、この絵のタイトルと描かれた日付、そして、いくつかの文が、書かれていた。
日付は、瑠羽が死ぬ、三日前の物。
タイトルは、『夜に想う』。
『玻菜へ』
『ありがとう。』
『僕に幸せな最期をくれて、ありがとう。』
『僕を愛してくれて、ありがとう。』
『…もし今玻菜が、どうにもならない事態にあって、お金が必要なら、この絵を売って下さい。少しは、お金になる筈です。』
『僕は、玻菜に、君に、幸せになって欲しいのです。』
『何が何でも、どうしても、幸せになって欲しいのです。』
『こんなにも、死ぬ事が怖くなってしまう程、僕は、君のおかげで、幸せになる事が出来ました。』
『僕はもう、玻菜から貰った幸せを、僕の手で返せないから。』
『だから玻菜に、この絵を遺します。』
『幸せになって下さい。』
『どうかどうか、幸せになって下さい。』
『ありがとう。』
『本当に、本当に、ありがとう。』
ぽたり。ぽたり。
キャンパスの裏地に、涙が落ちる。
涙で汚しちゃいけない。
ごしごしと目元を擦るけれど。
それでも、それでも、涙は、溢れて。
…仕舞いには、嗚咽を上げ、腕で目元を覆ってしまって。
瑠羽は、死の間際まで、あたしを想ってくれていた。
自由なんか、屋敷の奴ら全員が寝静まった夜にしか無いだろうに。
その時間全てを使って、この絵を描き上げたんだ。
「…ざけんな…ざけんな馬鹿野郎…ッ!」
あたしは充分に幸せだったんだよ。
瑠羽と一緒にいられた。瑠羽とお話出来た。
それだけで、あたしは充分に、十二分に、これ以上無いってぐらい、超超超幸せだったんだ。
だから。
「死の間際ぐらい、自分の為に時間使えよぉ…ッ!」
それぐらいしたって、誰も責めやしない。
あたしだって、責める事なんかしない。
なんで…なんで命を使い潰して、こんな事を…ッ!
『…………多分、瑠羽さんは、自分の為に、遺された時間を使ったのだと考えます』
「ッ!」
『瑠羽さんは、自分の、玻菜さんへの想いを描いたのです。
自分にある、一番幸せな時間を、想いを、絵筆に乗せ、形にしたのです。
追想する為に…幸せの中で、死ぬ為に』
「…………馬鹿…野郎ぉ…………」
あたしには、そう呟くしか出来なかった。
瑠羽が遺した、最期の想い。
それは、あたしになんか勿体無い程の、有り余る程の、愛。
瑠羽の絵を抱きしめる。
やっと、会えたね。
あたしも、大好き、だよ。
愛しているよ、瑠羽。
「…玻菜にゃん、どうするにゃ?」
「…え?」
「絵の事にゃ。
生活が苦しかったらこの絵を売ってお金にしろって描いてあるにゃー」
「あくまで私の主観ではありますが…筆跡鑑定を行えば星奈 瑠羽様の物と鑑定の保証が下りましょう。
日付は現在発表されている最期の絵よりずっと後の物、さすればこれが本当の最期の絵になります。
また、星奈 瑠羽様は人物画を描いた事の無い画家です。
そう言った付与価値を全てひっくるめれば、恐らく六千万は下らないかと」
『それも最低額です。
オークション次第ではありますが、容易に倍に跳ね上がるかと』
「売買ルートは任せてにゃっ!
表からも裏からも選びたい放題にゃっ!」
「…ヌル様…本当に関わって良い方なのでしょうか…?」
『大丈夫…だとは思いますが、極力人には話さない方が良いかと…』
「聞ーこーえーてーるーにゃー!
大丈夫にゃっ!絶対に身元がバレないルートにゃからっ!」
支店長もミツキさんもがっくりと肩を落とした。
…なんだか、緊張感に掛けるなぁ…。
「それで、どうするにゃ?玻菜にゃん」
「…………ん。そうだな」
これを売れば、びっくりするぐらいのお金が手に入る。
命を繋ぐだけじゃない、遺言書庫にある全ての瑠羽の物を手に入れる事が出来る。
瑠羽も、万が一の時は売って欲しいって書いている。
…………あたしは…そうだな…うん。
「…………ヌル、この絵、あたしの部屋まで持って帰れる方法あるかなぁ」
「…売らないにゃ?」
「…この絵には、何億円支払ったって足りない価値がある。他の人には見定められない価値が。
それにあたしはまだ、どうにもならない事態になんかなってない。
雨を防げる家がある、真っ当かどうかは知らないけれど職だってある。
…確か二言は無いんだよな?ヌル」
「真っ当かどうかは余計にゃっ!
まったく…めっちゃこき使ってやるから覚悟するにゃっ!」
ヌルはずびしっとあたしを指差す。あ、ちょっとポーズ決めてる。
「…なぁミツキさん、あたし、決めた」
『何を、ですか…?』
「あたし、いつか瑠羽の個展を開く。
日本中…世界中に散らばった瑠羽の絵を集めて、個展を開く。
時間は掛かるし、生きている内に出来るかは分からないけれど…でも、個展を開く、開いてみせる。
瑠羽は確かに生きていたって、死んでも瑠羽の想いは確かに生き続けるって、
瑠羽の想いは、こんなに綺麗で、素晴らしいんだって、みんなに知ってもらいたいから」
あたしは支店長を、ヌルを、ミツキさんを見る。
一瞬だけ、ミツキさんは息を飲んで、
『…………玻菜さんの本当の笑顔って、こんなに素敵だったんですね…』
…ああ、そっか。
なんだか…何年かぶりに、ちゃんと、心から笑えたなぁ。
「…これが今回の…玻菜さんと瑠羽さんの、事の顛末です」
「そう。お疲れ様。
…何笑ってるの?」
「あ、いえ、何も」
私の報告書を読んだフタバはそう言って、提出されたデータをテーブルに置きました。
いつも通り、少し無愛想。
けれど私は、フタバが少し、ほんの少しだけ微笑んだのを、見逃しませんでした。
やっぱりフタバはちょっと素直じゃないです。ツンデレです。
「…あの、フタバ。
実はその、一つ、お願いが…」
「星奈 瑠羽の【想起】の事でしょう?」
「だっ、大正解です…っ!
どうしてそれを…っ!」
「話の流れを見ればだいたい分かるわ。
…それで?」
「…星奈 瑠羽さんの【想起】を、全て予約状態にして欲しいんです。
…いつか必ず、立華 玻菜さんが来ます。
その時にお渡し出来る様、全て、保管したいんです」
フタバは怪訝そうな顔で、睨み付ける様に私を見て、それから、報告書のデータを見て、
深く深くため息をつき、ほんの僅か、微笑んだのでした。
それから、何百、何千もの朝が来て。
それから、何百、何千もの夜が来て。
都心の、名の知れた画廊。
そこで、かつて天才と呼ばれた画家の絵画展が開催されました。
世界中に散らばったその画家の絵画を全て集めたその絵画展の一番の目玉は、その画家直筆の下書きやスケッチブックが公開された事。
絵画展は連日大盛況で、売上は慈善団体を通じ、恵まれない家庭や被災地に全て配布されるとの事でした。
絵画展の名前は、『夜に想う』。
大切な人の最期の絵のタイトルだと、主催者は笑っていたそうです。
そうして、九つ目の物語が満たされた。
愛しき人を失い、その人が残した最期の想いを、探す物語。
それは本を本棚に収め、ほぅと一つ、息を吐いた。
まだだ。
まだこんなにも、満たされていない物語がある。
それは本棚に収められた本達の背表紙を撫で、一冊の本を取り出した。
さて、次の物語は。
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