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『一度きりの夏』
帽子を持ってくれば良かった。ぎんぎらとした陽射しが、堅いアスファルトに叩きつけられ、うつむき加減の僕の瞳に飛び込んでくる。ただ、これを励ましだと受けとるのはあまりにもポジティブすぎる。
だってこれから向かうのは、不思議な庭がある、叔母の家なんだから。不思議も不思議、他の人が見たらばったり倒れかねないほど、不思議な庭だ。実に、形容し難い。
むっと暑い風が、海を運んできた。ああ、先のことを考えるのはやめよう。深呼吸すると、潮のにおいが躰中を満たし、さわやかな満足感に包まれる。 僕を元気づけてくれるのは、やっぱりこの田舎のかおりだけだ。
道もやがて土装に変わる。どこを向いても木々が生い茂るようになり、小川を流れる水の音が近くなる。そうなれば、もうすぐだ。まぁそれは、引き返せないというのと同義なのだけど。
土産に持った桃が傷まぬように、小走りで僕は先を急ぐ。
*
「去年ぶりね伶華」
叔母はそう言って、きんと冷やした水蜜桃を出してくれた。しっとりと濡れた桃は、やわらかな」朱色に頬をそめ、微笑んでいるように見えた。
僕が手を伸ばすと、彼女は少し笑ってそれを見ていた。
「なに……」
「ここに来るの、嫌だったんじゃない?」
「自覚してるならどうして呼んだのさ」
「彼らは伶華が好きなのよ」
口に含んだ桃は、あたたかい雪のようにふわりととろけた。甘いかおりは、僕を内側から包み込むようで、つい嬉しくなる。
「早速だけど、庭仕事を頼めるかしら」
「……んん、」
「なぁに、水やりを頼むだけよ」
「――叔母さんの庭は広い」
「狭いと思うんだけれどね」
「広いよ、限りなく。それに、叔母さんの庭は変わってる」
「怖がる必要なんてないわよ。みんな優しいでしょ?あなたを待ってるんだから、早くお行き」
「でも……」
「怜華がだーいすきな水蜜桃は、逃げやしないわよ」
「――わかった。わかったよ」
叔母はいくつになっても強引だ。僕が折れると、彼女の顔に花が咲き、露骨に喜んだ。
「さすが伶華ね。そう言ってくれると思った。そうね……何かお菓子を焼いてあげるわ。いいでしょ」
「うん」
はぁ、何だか上手く乗せられた気がする。それはきっと気のせいなんかじゃないんだろうな。でも、僕が彼女が作るお菓子が好きなのも事実。幸福の代償は大きいな……。
「早くしないとおやつ時までに間に合わないわよ!」
ぐずぐずしていると、ついには水蜜桃まで取り上げられた。思わず「あぁ……」と声がこぼれる。僕はそうしてようやっと、席を立つ。
たった一年ぶりの再会だったけれど、身長差は以前にも増して歴然としていた。彼女は僕を見上げ、それから少し嫌そうな顔をして離れていった。
「水蜜桃はお風呂上がりに食べればいいでしょ」
叔母は、いつからか僕の隣に立つことはなくなっていた。それは、僕と彼女との距離をより離すことになった。彼女はそれに気づいているのだかどうだか。まぁそんなこと、気にする彼女でもないけれど。それは僕も同じことだし。
*
裏口から庭に出ると、生暖かい風が、茂みの奥から吹きつけた。ここの庭は広く、しかも半ば森と化しており、叔母が言う「みんな」が待っている。奥がどこかなんてわからない。木苺やら薔薇やらが蔓延っており、迂闊に動き回ると躰のあらゆるところを傷つけられる。庭仕事が終わるころには、絆創膏がいくつ貼られることやら。こんな“生きた”庭、相手になんてしたくない。
ドアから出てすぐそばの如雨露に水を満たし、さてどこから手をつけたものかと立ち上がる。蕀のアーチをくぐると、草のにおいがむっと強くなった。
「……伶華が来た」「伶華だ」「いいにおい」「久しぶりだ」
「おはよう。梅とさくらんぼの樹はどこか知ってる?」
囁かれる数々の声に、僕は水をばらまきながらそう訊いた。“彼ら”は風に揺られ、くすぐったいような笑い声をあげた。僕はその声に、思わず天を仰ぐ。空はほとんど見えず、木々の腕が好き勝手に伸びていた。
「まっすぐ行って枇杷の木の右の小道へ。そうしたらすぐ左手だよ」
僕は毎年ここに来るはずなのに、この庭は刻々と姿を変え、記憶に残すことは難しい。
「ありがとう」
言われてまっすぐ先を見据えると、確かに上品な橙の実をたわわに実らせた枇杷の木が見える。僕はそこまで小走りにたどり着き、そっとその実に手を伸ばした。ひんやりとやわらかな産毛が熱い肌に心地いい。甘いかおりこそしないが、この実がおしとやかな幸せを与えてくれるのを知っている。
不意に枇杷の木が、ざわりと身震いして僕はその腕をさっと引っ込める。つやのある大きな葉っぱを震わせて、僕を追い払う。
「叔母さまから許可をもらってないんでしょ。あげないわよ」
「――そんなつもりじゃ」
彼女は反論の隙を与えてくれなかった。
「さぁ、梅と桜の樹はすぐそこよ。それが目的なんでしょ」
「うん……ありがとう。あっちには何が……?去年はなかった気がする」
僕は桜の木とは反対方向に延びる道を見て訊いた。奥は暗くてよく見えない。枇杷の木はもう一度ざわりと揺れると、
「あのひとが新しく道を創ったのよ」
「あのひと?」
「行かない方がいいんじゃないかしら」
「ふうん……」
それっきり、枇杷の木はもうどこにでもある普通の植物になってしまった。生き生きと葉を繁らせることなく、またその枝に実った果実を隠すでもなく。そこに居る。
僕は素直に右手に折れる。するとすぐ左手に大きな桜の幹が目に入った。向かいには同じくらい大きな梅の樹が幾何学的に枝を折っている。
桜の樹の幹は、大きな凹凸がありつつもあたたかく、偉大な存在だった。僕なんかよりも、ずっとずっと長生きなこの樹には、何でも受け入れてくれるようなやさしさがあった。
「こんにちは」
「……伶華だね。どうしたの?」
繊細な空気に微睡むように、少し、間をあけて僕は訊いた。
「奥には誰がいるの?」
と訊いた。何故そんなことを訊いたのかはわからない。きっと無意識に惹かれていたんだと思う。桜の樹の返答を待つ間、草木の露を含んだ風にあてられてか、じわりと汗がにじんだ。
はぁ、と息をひとつ、吐き出すまでの少しの間だった。
「気になるなら行っておいで」
後ろの梅の樹がそう言った。
「……そう……。そうね。ええそうするべきね」
と桜の樹。
結局僕は、水やりもまともにせず、如雨露をその場に置いてもと来た道を引き返すはめになったのだった。
枇杷の木の前を通りすぎ、見慣れない道を進む。そのまま夏特有の暑く気怠い空気が重々しく乗しかかり、僕は思わず熱いため息を吐く。
紫陽花の花はすっかり錆び付いてしまっていて、庭に彩りを与えることはなかった。ただ濃い緑の葉に絹糸の」如き蜘蛛の巣を貼り付け、再び訪れる夏を静かに待っていた。どういうわけか、ここは時間が止まっているように感じた。
やがて道は消え、ようやく顔を上げたけれど、特に何があるというわけでもなかった。名前も知らない植物たちが、気の向くままに蔓延り、静かに眠っていた。もはやどこまでが庭なのか、わからない。
「伶華」
「……え?」
僕は振り向いた。それでも澱んだ空気はまっまく動かない。後ろには、本を抱いたひとりの女性が立っていた。庭が、森が、ざわりと動いた。ふわ、と風が僕と彼女の髪をやさしく揺らした。
「始まりは気づかれることなく、けれど終わりは唐突に。私達は待っている。年に一度のこの夏を」
「あの」
ぐらり、と地面が揺れる。暑い夏、不思議な庭、最初で最後の――ブラックアウト。
*
よく見慣れた天井が目前に広がっていた。僕はどうやら眠っ
シャツが汗で濡れていた。部屋を出ると、叔母はリビングで小説を読んでいた。彼女の正面には、見知らぬ女性が座っていた。
「あら起きたのね。彼女が倒れてたあなたを見つけてくれたのよ」
「こんにちは。大丈夫?」
濃紺のリボンを巻いた、カンカン帽を膝の上に乗せ、爽やかな笑顔で笑った彼女は、
「あ……さっきの」
「――どこかで会った?」
「え?あぁ、いえ」
「ごあいさつしなさい怜華。彼女は作家の和芭よ」
叔母はいつまでぼーっとしてるのよ、と不満げに僕を睨んでそう言った。
「よろしくね、怜華くん」
「よろしくお願いします。あの、作家なんですね」
僕がそう訊くと、和芭はカンカン帽の下から一冊の小さな本を取り出した。文庫本サイズだけれど、表紙はしっかりしている。
渡されて中を開くと、それは小説ではなく、図鑑だった。水彩絵の具で描かれた、淡い植物たちが紙いっぱいにあふれかえっている。そばに小さく添えられた解説は、やさしい文字で、今にも紙のなかにとけこんでしまいそうである。
「どう?」
「綺麗ですね。とても」
「君にそう言ってもらえてうれしい」
本を返すと彼女はそう言ってはにかんだ。
「ここの植物を描かせてもらってるのよ。ね、おばさま」
「ええ。毎年来てくれるのよ」
叔母もつられて笑う。
けれど僕はここにいるのが場違いな気がして、軽く会釈をして立ち去ろうとする。なぜだろう、微かな違和感。やわらかな空気のなかに混じるなにかが、僕の肌をぴりぴりと刺激する。
「そろそろ帰るわ」
と和芭が席を立った。絶妙なタイミングに驚く僕に、彼女は悪戯のように微笑んだ。
「怜華、お見送りしなさい」
「はい」
玄関にて、サンダルを履いた彼女は、靴を履こうとしゃがんでいた僕に、顔を寄せてくすりと笑った。ふわ、と草いきれのような、懐かしい香りが僕をつつむ。
「来年もここに来てね」
「……ええ」
自分とこの空間との境界が、曖昧になるような感覚。心地よくて、ゆっくりと目を閉じる。まるであの庭のなかにいるような……。
「怜華くん」
ぱちり、色素の薄い瞳と目が合う。足元がおぼつかなくて、少し揺れた。夢心地。
そして僕は、ああ彼女は庭の奥にいた女性だったんだな、と悟る。そして彼女はもういない。どこにも。玄関にあった靴も、濃紺のリボンをまいたカンカン帽も、噎せかえるような草いきれの香りも。ただ床に、小さな図鑑が寂しさを訴えるように置かれていただけ。それだけが、彼女の存在を主張している。
僕は図鑑を拾って、リビングに戻った。「遅かったじゃない」と、何も知らない叔母の声。甘くて芳ばしい、焼き菓子の香りだけが、現実だった、暑く苦しい、最後のひと夏の思い出。
*
夏は再び訪れた。しかし、叔母に夏が訪れることはなかった。あれから数ヵ月後、ぱったりと逝ってしまったのだ。そんな歳でもなかったのに。詳しいことは知らない。知らないでいる方が、楽だから。
僕は会う人もいないのに、家主を失った家に来ていた。今度は帽子を忘れずに、かぶってきたというのに、誰もいない。暑く刺すような鋭い日差しは相変わらずで、植物たちの緑を際立たせていた。
もう、誰も住んでいないこの家。そしてこの庭。ふと気がつくと、僕は寂れた門を開けて、庭に侵入していた。もちろん、僕にはその権利も理由もないはずなのに。
植物は、ただの植物だった。当たり前だ。会話なんてできるわけがない。僕の心と体はちぐはぐで、情緒がめちゃくちゃになる。
ああ、お願い、僕を呼んで。叔母はもういない。だから名前なんて誰も呼んでくれないにきまってる。何せこの庭は広くて深くって、叔母と僕くらいしか立ち入らないんだから。僕は何を求めてるのやら。
木々のざわめきに耳を傾けることなく、せかせかと進み、あの日のままの如雨露を見つける。教えて、この先には何があるの?奥には誰がいるの?教えて、誰か。誰かって、誰だよ。
「怜華くん」
色素の薄い瞳。
「お久しぶりです」
と僕は笑った。誰?
「今年も来てくれてありがとう」
濃紺のリボンを巻いた、カンカン帽。一冊の小さな図鑑。
僕は彼女の背中を追って、奥へ奥へと進んでゆく。時の止まった植物たちの間を抜けて、深く深く、沈んでゆく。
去年とまったく同じ場所で、彼女(和笆さんだ)は振り向いた。名前も知らない植物たちが蔓延る最奥。庭が、森が、ざわりと身動ぎをした。
「君を待ってた。私ちはずっと」
彼女は土の上に座った。僕もそれにならう。地面は、驚くほどにつめたかった。
「この庭は、君を求めてる」
ああ、草いきれの懐かしい香りがする。気がつくと僕は横になっていて、土に抱かれていた。澱んだ空気は今や清々しいものにかわり、止まっていた時は動き出した。
もう、前も後ろもなにもわからない。でも、もうそれでいい。ゆっくりと、体が融けだす。庭が僕になり、僕が庭になる。彼らの小さな生命の奮えは、僕を満足させるのに十分すぎた。
伸ばした手が見える。あの植物図鑑が落ちている。僕はゆっくり目を閉じた。
ああ、草いきれの香りがする。
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