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女の子が池の真ん中に立っていた。小学校の低学年ぐらいの子。
ピンク色の長靴を履いている。でも片方だけ新しそうに見えた。
あれはきっと愛美の長靴だ。
「おねえちゃん、見て。クマさんのぬいぐるみだよ。愛美がかわいがるからね」
愛美がぬいぐるみを持って女の子に手を振っている。池にまた落ちそうだ。
直也はあわてて歩みよろうとした。だが、不思議なことに足は根が生えたように動かない。いつのまにか周りの音も消えていた。世界が動きを止めたように静まり返っている。
目だけで女の子の姿を捉える。池の周辺から靄が立ちのぼり、その姿を一瞬見失った。
「あ、おねえちゃん」
愛美が空を指さした。
白い靄の中、女の子が宙に浮いている。
女の子が手を振った。笑っているように見えた。
時間にしてほんのわずかだった。
女の子はくるりと背を向けると、ぴょこん、ぴょこんと灰色の空へと駆けていく。一歩ずつ踏み出される足あとには白い絵の具を垂らしたように小さな雲が開いていく。楽しそうに、ひとつ、またひとつ、小さな雲を残して駆けあがっていく。水溜まりをぴょんぴょん跳ねるように。
やがて女の子は空高く舞いあがると、雲に紛れるように消えていった。
瞬間、幻想的な世界は消え、いつもの公園に戻った。
どこかで小鳥が鳴いている。世界が目を覚ましたように動きはじめた。
幻だった?
ユリエと目が合った。涙ぐんでいる。幻じゃない。
「女の子はずっとぬいぐるみを探していたのね」
ユリエが嗚咽しながら声を絞り出す。ユリエにも男性から聞いた話を聞かせていた。
子を想う親の気持ちは一緒だ。直也の目からも涙がこぼれそうになる。
「大事にしていたクマのぬいぐるみのことが気になってたんだ。ほんとはぬいぐるみを公園に遊びにくる女の子にあげたかったんだよ。それで池に引き摺りこむ噂が流れたんだろう」
きっと女の子は大切にしていたクマのぬいぐるみを最近公園に遊びにくるようになった愛美にもらってほしかったんだ。
なにも知らない愛美はクマのぬいぐるみを大切そうに撫でている。
「愛美、おうちに帰ってクマさんとお風呂に入ろう」
「うん」
直也とユリエに挟まれ、愛美が手をつなぐ。
直也と愛美の手のひらがクマのぬいぐるみを握る。
「おねえちゃん、空にのぼったね。ぴょこん、ぴょこんって」愛美があどけない顔でふたりを見上げた。「あれぇ、パパとママ泣いてるの?」
「う、うん……。親だから」ユリエが洟をすする。「お空にのぼった女の子のことを考えていたの。あの子は、愛美ちゃんにクマさんをみつけてもらってよかったのよね」
女の子は安心して旅立ったんだと直也も思いたかった。
「でも愛美は行っちゃダメだよ」
「うん。愛美はパパとママとずっ~と一緒にいるよ」
見上げるともう空に足あとはなく、雲の切れ間から幾筋もの光がシャワーのように降り注いでいた。
あの女の子はいまごろ空の向こうで楽しく遊んでいるはずだ。直也はそう考え、愛美の歩幅に合わせてゆっくりと前に進んだ。
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