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Chapter.1 覚醒未満
幾何学模様の刻まれた褐色と象牙色の大理石の床に、麻で雑に編まれた襤褸を引きずりながら私はとある部屋へと向かっている。私はふと立ち止まって宙を見上げた。天井ははるか高みにある。ガラス製のシャンデリアが僅かに揺れていた。いやに豪勢なこのホールは、見渡す限り白衣を着た者たちの無言の往来が支配している。彼らは皆一様に資料を流し読みしつつ、急ぎ足で廊下を行く。反対の手で握られたマグカップから今にもコーヒーが零れそうだ。ほとんどの者が私の脇を素通りするか、一瞥するなり興味を失くして去っていく。一部の者は私を見るなり足を止め、ある者はこの場に似つかわしくない私の格好を見るなり驚きと嫌悪の混じった表情を浮かべて、危うくマグカップ滑り落とすところであった。それから彼らはお互いの顔を見合わせては小声で二、三言交わし、結局私に道を空けるのだった。研究員の一人が私の前に立ちふさがる。
「お嬢ちゃん、ここは君の来るべき場所じゃない。どうやって警備隊をやり過ごしたかは知らないが、来た道を引き返すんだ」
見事に整えられたブロンドの髪と揺るがない眼差しから自尊心の高さがうかがえる。彼は子供を諭すような柔らかな笑みを浮かべていた。私はしばらくその憎らしい目を一瞥して通り過ぎようとしたが、先回りして行く手を阻むのだった。私は舌打ちして懐に手を入れる。
「私が誰かわかってるのか?おとなしく通せばいいものを……」
忍ばせていた拳銃を素早く構え、迷いなく彼の膝に向けて撃鉄を下ろす。乾いた発砲音がホール全体に響き渡り、場を凍りつかせた。ほんの一瞬の静寂の後、銃声に勝るとも劣らず甲高い悲鳴が聞こえる。やがて状況を理解した彼らは、まるで水槽を叩かれたメダカのように散り散りに走り出した。そうして廊下には、勇敢だが愚かな男が血溜まりに身を埋めているほか、誰もいなくなった。私は麻布の裾を引きずりながら、再び目的の部屋へと歩みを進める。
支部長室、そう銘された黒茶色の重厚なプレートの据えられた扉の前に立つ。クリーム一色の傷一つないそれは、部屋の主の性格を如実に表していた。この部屋は、私の忌まわしき過去の代償だ。私は今日、彼を殺しに来た。震える指で拳を握りしめる。次の瞬間には、ドアノブに弾丸を正確に撃ちこみ、ほとんど蹴破る勢いで扉を開いた。すでに鼓動が早まっているのを感じる。銃を構えて中に彼以外誰もいないのを確認した。
「ただいま、メル。愛しき妹様のお帰りだ。歓迎してくれよ」
彼は不自然なほどきれいに整えられた部屋の奥にいた。ブラインド越しに窓の外を眺めながら立っている。
「……君は知らないだろうが、メレックス支部長だ。ここでは皆がそう呼ぶことになっている。ともあれ君が帰るのを心待ちにしていたよ、ハルシオン」
余裕綽々としたその声に苛立つ。窓に向けて発砲した。凄まじい粉砕音とともにガラスが粉々に砕け散り、破片が地面を何度かはねてきらめく。
「白々しい、わかってるだろ?次はお前の頭がこうなるぞ」
照準を彼の頭に合わせる。この距離でなら確実に打ち抜くことができる。
「行儀というものを忘れたらしいな。どこでそんな挨拶を覚えてきたんだ?あの牢獄紛いの孤児院か?」
「黙れッ!こちらを向け。その高慢な面に一発かましてくれる!」
私の中には猛獣が住んでいる。復讐心と言う名の猛獣が。今その檻が開け放たれた。猛獣は飢えた目つきで目前の獲物を捉えている。しかし私はその猛獣を眺めていることしかできない。近づくことも声を上げることもできず、ただその状況を見ていることしかできない。時として人には正論を飲み込めない状態に陥ることがある。今の私がそうだった。引き金に据えた指の震えが止まらない。理性が私に警告する。この男は理由なしに、目の前の危険にあえて立ち向かうような人間ではないと。それを二年前に身をもって学んだではないか、と。感情のままに発射したい衝動を抑え込むように、残りの弾数を数える。
「そうだな。話し合えるうちに話しておこう」
彼がこちらをゆっくりと向く。猛獣が涎を滴らせている。ぐらりと視界が揺らぐ。それからはあっという間だった。彼めがけて1発放ち、間を置かずにもう1発。いや、すでに3発撃ったかもしれない。わからないのでもう1発。装填数はいくつだったろうか……。
場が静寂に包まれてからようやく、虚しく空打ちを続けていたことに気づく。それでも全弾を撃ち尽くしたとは信じられなかった。確かにそれらは命中したはずだった。彼の背後の壁には複数の凶弾がめりこんでいて、大きくは外していない。ところが彼は微動だにしない。かすり傷の一つも負っていなかった。一体なぜ……?
「そういう感情的なところ、以前と変わりないみたいだな。でも安心していい。僕はようやく君の価値を見いだせたんだ」
そこから先、何を話したのか、どうなったのかは覚えていない。視界が徐々に闇に侵食され、ついには何も見えなくなった。だが、そんなことはもうどうでも良くなっていた。私はその瞬間から死んだも同然なのだから……。
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