Chapter.1 覚醒未満

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「……造られたのは×年前だって」 暗闇の向こうから女の話し声が聞こえる。かろうじて聞き取れた単語では文脈を掴むには至らなかった。 「悪趣味な……待てよ、そうなるとこいつは……」 今度は別の方向から、今度は男の声が聞こえた。 「あなたもそう思う?それなら……見たくはなくて?」 抑揚の少ない、落ち着き払った女の声。懐かしい気持ちがした。 「遠慮しておくよ……」 男の声にも聞き覚えがある。しかし、その人物を思い出すことはできなかった。 「もったいない、今後見られることはそうそうないわ」 段々とはっきり聞き取れるようになった声。やはり間違いなく彼女の声だ。しかし奇妙な気がした。なぜ彼女がここにいるのか、なぜ暗闇の中で、ぼんやりと声が聞こえるのか……。 「できれば一生見ずに終えたいね。……そろそろ行くよ。あの人につながる手がかりがあればまた連絡をくれ」 「さようなら」 遠ざかってゆく不規則な足音。扉の閉まる音。どうやら部屋の中にいるようだ。そうなると、これは現実なのか? 「……目を覚ましているのはわかってる。さあ起き上がりなさい、ハルシオン・シルフィード」 自分の名前が聞こえ、瞬間的に体中に強烈な刺激が走る。焼けるような痛みに耐えかねて目を見開く。同時に世界に光が戻った。やはりこれは現実なのだ……。 「……ルー…ザ、……あんたなのね?」 痛みから解放されて喉の奥から絞り出した声はかすれて、犬笛のような音となった。喉だけではない。視界に光が戻ったが、境界を認識できない。目の前にはまばらな色の光のモザイクが広がっている。手足はしびれたままで痛みに抑えられて上手く動かない。産まれたての赤子のような気分だ。 「世間に見放された可哀想なお嬢様。悲劇のヒロインのお帰りよ。……おはよう、ハル」 「ルーザ……なぜここに?財団から追われたはずじゃ……」 何かがハルシオンの手に触れたのを感じた。温かい。それは人の手の温度だった。触覚がある。これはまごうことなき現実だ。にもかかわらず、直感的にそう思えない薄気味悪さを覚える。すべてにおいて整合性が取れない。夢の中で目覚める夢を見ているとでも考えない限り。しかしあらゆる物事を差し置いて、自身に課された至上命題を思い出す。ハルシオンには探し人がいる。必ず彼を見つけ出し、そして……。 「……メルはどこ?」 ほんの数センチだけ脳を守る重鉄の塊を傾ける。心拍数が上がるのを感じる。モザイクの端にルーザの影らしきものを発見した。 「それは私も知りたいくらいよ。まったく、何があなたをそこまで執着させるのやら……」 その次の瞬間、ハルシオンはありったけの力でルーザに掴みかかった。指先に柔らかな肉が硬直するのを感じた。が、またその次の瞬間には上体が重力加速度に従って地面に叩きつけられた。仮に体重を50kgとすると、その衝撃は約500Jの運動エネルギーが肋骨にかかったことになる、骨折するには至らない……などと考えながら悶えるような痛覚をやり過ごした。 「あんたにメルの何がわかるっていうの?裏切り者が!」 痛みに耐えつつその手は離さず、しっかりとルーザの腕を握っていた。顔の輪郭が鮮明に見えてくる。傷一つない端正な目鼻立ちと、小さな口、それから長い深紫の髪、ハルシオンの知っているルーザその人だった。 「私は何もかも知っているのよ。あなたの過去や、なぜあいつに執着するのかも。もう隠さなくていい、全ては過ぎ去ったことだから」 沼にはまった体を引き抜くような重い動作でルーザの首元に掴みかかろうとした。だが、その手はハルシオンの意図とは裏腹にルーザに掴み返され、驚くほど軽快な動作で払いのけられた。 「今は何も考えなくていい。あとで嫌というほどわかるから……今はただ自分が生きているということだけ知っておけばいい」 背中に痺れるような痛みが走る。それが、ルーザのもう片方の手に握られた鎮静剤の注射器によるものだと気づいたときには、意識は混濁し、視界がまばゆい光で満ちてゆく。やがてすべてがその光の中に隠れてしまい、自分の体もそこへ吸い込まれていくように感じられた。そして、その白い闇が完全にハルシオンの意識を捕えたとき、あらゆる感覚が四方へ発散していき、糸の切られたマリオネットのように体躯を横たえた。
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