羽村孝市の手紙

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羽村孝市の手紙

     草壁玲子様  お久しぶりです。  こんなふうに手紙を書いているのが、不思議で仕方ありません。  あなたはぼくのことを、ちゃんと覚えてくれているでしょうか?  ぼくのことなんて、友人の弟ぐらいにしか思っていなかったかもしれませんね。  しかし、ぼくにとっての草壁さんは、青春のほろ苦さを味合わせてくれた、初恋の人だったんですよ。  あなたは学生時代、姉の早苗に会うために、よく我が家を訪ねてくれました。  玄関や廊下であいさつぐらいしかしなかったけれど、その笑顔や声のひとつひとつを、ぼくは大事に胸に刻んでいました。  こんなことを手紙の冒頭に書いてしまって、不審に思われるかもしれませんが、あのころのぼくは、歳上のあなたに、ひそかな恋心を抱いていました。  十数年越しですが、想いだけは素直に記しておきます。  ああ、申し訳ない……。  姉の友人への手紙に、たいへん失礼なことを書いてしまいました。  初恋の女性に手紙を送ることになり、冷静さを欠いてしまったようです。  となりで妻が、なんだお前は気持ち悪い、と怒っています。  本職ではない、素人の文面です。どうか大目に見てやってください。  先日は、姉の葬儀に来ていただき、ありがとうございました。  葬儀のとき、ぼくの隣に立っていたのが、我が妻です。清子といいます。  いろいろ書きましたが、今はまあ、二人の娘を授かって幸せであります。  間が抜けていて、平凡な妻ですが、感性だけは家族みな同じようで、毎日楽しく生活しています。  こんなことを書くと、また妻に怒られそうですが、葬儀のときに見た草壁さんは、昔と変わらずとても美しかったです。  その凛とした姿は、冬の湖に立つ鳥を思い起こさせました。  草壁さんが、新聞社で活躍しているということも、生前、姉からよく聞かされていました。  姉とは、本当に心が通じ合った仲だったようですね。  姉は、あなたの書く記事やコラムをスクラップし、いつも自分のことのように自慢していましたよ。  さて、前置きが長くなってしまいました。ここからが本題です。  じつは、姉の遺品を整理していて、ある原稿をみつけました。  草壁さんは、姉が最後に担当した作家が、山科七海だったのをご存知でしたか?  映画化された、「式の魔物」、「月人アリ」などで有名な恐怖小説家だそうです。  ぼくはそういったものを観たり読んだりしないのでよく知りませんが、妻は、怖いが癖になる面白さだ、と絶賛しています。  ワイドショーに取り上げられたあと、すぐに他の話題にとって変わられましたが、その山科七海も、姉の亡くなる数ヶ月前に、行方不明となっています。  もちろんぼくは、姉の死は事故だったと信じています。  警察の捜査を、疑っているわけではありません。  なにかの陰謀や事件に巻き込まれたとか、思っているわけでもありません。  そんなのは、フィクションの世界での出来事です。  姉は、山科七海が失踪したことで、心身ともに疲れ、休暇を取りました。  そして、初めて行く三陸の山奥で、急勾配の谷底に、車ごと落下しました。  胃の中から、アルコールが検出されたといいます。  お酒は絶ったと聞いていましたが、山科の件をきっかけに、再開していたのでしょう。  それが事故につながったかと思うと、残念でなりませんが。  しかし、それこそが真実なのでしょう。  みつけた原稿は、たぶん、姉の創作なのだと思います。  実際、姉は学生のころから編集者ではなく、小説家になりたいと言っていましたから。  山科七海とのやりとりから妄想を広げて、奇妙な物語を、自分の手で創造したんだと思います。  原稿の覚書でも、そのようなものを書くと宣言していますし。  最初は、小説家、山科七海の生態を観察するかのような、冷たい目線で書かれています。  しかし、だんだんと描写や表現は、現実離れしていきます。  妻も、終盤は心が病みそうだと言って、読むのをやめました。  同じことが書かれていたとしても、ふつうの小説なら楽しめたでしょう。  しかし、亡くなったばかりの義姉が主人公なのでは、仕方がありません。  燃やして捨ててしまおうかとも思ったのですが、取りようによっては、この文章は姉、羽村早苗の遺作とも言えます。  そこで、姉の親友だったあなたに、送ることを思いついたのです。  誤解して欲しくないのですが、この原稿に、姉からの秘密のメッセージや、なにか謎めいた陰謀が隠されているとか、考えているわけではありません。  あなたには職業柄、いろいろなつてがあり、真相を究明するだけの人脈や知識があるから、調査をしてくれるんじゃないかと、期待して送ったのでは、けっしてありません。  姉は、本当に草壁さんを慕っていました。  憧れだったのかもしれません。  自分の目標通りに新聞社に入り、いろいろな事件を取材をするあなたに追いつこうと、姉も、必死に小説を書き続けていました。  そのことを知ってもらいたくて、この原稿を送りました。  内容はおぞましく、目を背けたくなるようなものになっています。  しかし、魂を込めて書いたものに間違いありません。  ただし、読むも読まないも、あなたの自由です。  もし、途中で読むのが辛くなっても、それは仕方がないことです。  そのときは、捨てるなり、燃やすなりして下さい。  原稿には、「ミューズ禁猟区」と題名がつけられています。  妻によると、ミューズとは、ギリシャ神話に登場する芸術の女神だそうです。  姉の友人とはいえ、このようなものを、勝手に同封したことをお許しください。  姉のためにも、一読していただくことを、切に願っております。  それでは。                                                    羽村孝市  追伸   あなたの最新の住所は、姉のアドレス帳を調べていたら、偶然知ることができました。  けっして、ストーカーまがいのことをしたわけではありませんので、ご容赦を!
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